3)地域を超えたネットワークから 旧若林邸の歴史を掘り起こす
———ところが所有者さんが解体したいというのです。そこで解体を阻止するために、旧若林邸を譲り受けることにしました。
朽ちるまま解体されるのを静観するのか、それとも保存に自ら動くのか、逡巡を繰り返した上で古玉さんは三浦住職や地域の人々、さまざまな協力者と共同で、旧若林邸の保存と修復を推し進めていくことを決意した。“ピンク色の洋館”に出会って約1年後の2019年9月、三浦住職が買い取る形で旧若林邸を譲り受ける。そして少なくない予算と専門家や工事業者、行政などの協力を要する建物の保存修復を円滑に進めるためには事業を興す必要があると考え、既に進めていた社寺文化や歴史の記録・収集活動とあわせて旧若林邸の再生を行うべく、「佐渡古文化保存協会」を立ち上げた。そして修繕方法や工事費の調達、活用方法などを悩み抜きながら、保存修復を進めてゆく。
翌2020年は新型コロナウイルス流行の影響で活動が停滞したものの、21年には保存修復活動を積極的に進めることができた。まず古玉さんは1月に青焼き図面をデザインしたポストカードによるお礼状送付と見学機会を設けることと引き換えに、SNS上で5,000円以上を単位として寄付を募りはじめた。協力者は順調に増え、約半年で100万円を超える寄付金が集まった。
それだけではない。旧若林邸に縁を持つ方など、関係者からの寄付や連絡が相次ぎ、旧若林邸の保存をめぐる地域を超えたネットワークが広がっていったのだ。
———資金もないし1人では手入れもままならないので手探りで寄付や協力者を募りはじめたところ、思いのほかいろいろな方が賛同してくれました。旧若林邸に学童疎開していたという90代のおじいちゃんが寄付をしてくださるなど、建物に関心がある方に加え、旧若林邸や鬼太鼓座に縁がある方からのコンタクトがあり、建物を取り巻く人間関係が見えてきたんです。これまでたくさんの方が旧若林邸に関わり、文化の舞台になってきたということが、浮き彫りになってきました。
あわせて「文化財サポーター」と呼ぶ、旧若林邸の掃除や草むしり、解体などを手伝う協力者も、SNSを通じて集まってきた。彼らの来歴からも、旧若林邸を取り巻く人の輪が見えてくる。
たとえば加藤史子さんは佐渡出身で、現在は家族の介護のために佐渡と奈良を行き来している。加藤さんのお父様は交流が広く、佐渡國小木民俗博物館の地域住民による民具収集をリードしたキーパーソンである中堀均とも旧知の間柄で、宮本常一とも旧若林邸で飲んだことがあるという。
———私は父が役場の人間だった関係で、郷土の歴史や文化に詳しい方々がやってきて飲み会をしているような家で育ちました。文化財の勉強がしたくて奈良に出たのですが、一旦外に出ると佐渡にいた頃に当たり前だと思っていたものが、当たり前ではないことにも気づかされ、より佐渡の古いものを残していきたいと感じるようになりました。
阿部研三さんは大分県出身。佐渡を拠点とする太鼓芸能集団・鼓童で活動すべく2000年に佐渡にわたり、14年まで舞台に立った。現在は佐渡の老舗パン屋の中川製パン所で働きながら、仕事の合間に旧若林邸の活動をサポートする。
———鼓童の前身にあたる鬼太鼓座の方々が旧若林邸で暮らしていたということは、鼓童で活動していた頃から知っていました。存在感のあるピンク色の建物は文化財的な価値もあるように感じられ、ずっと気にかけていました。解体されそうだと聞いたときはショックで、是非残してほしいと思い、ここまで手伝ってきました。
関雅志さんは公民館長を務めながら複数の地域活動団体に所属し、地元愛が強く顔も広い。古玉さんが大々的に寄付を募る以前から寄付金を手渡したり、知人を引き連れて掃除を手伝いに来たり、初期から物心ともども協力の手を差し向けてきた。
———本当にここまで来るのは大変だったと思いますよ。私は大したことはしていない。昔はこういう大正時代の建物がたくさんあって、懐かしさもあるんです。
彼らは古玉さんによる主にSNSを通じた呼びかけに反応して集まり、床磨きや草むしりなど、旧若林邸を保存修復するための地道な活動に参加してきた。重要なのは、そのたびに旧若林邸にまつわるエピソードが持ち寄られ、歴史が掘り起こされていくことだと古玉さんは言う。
———旧若林邸を保存しようと誰かが言い出さなければ、誰も愛着を持たないし、みんなが聞かせてくれる事実や思い出も、ただ埋もれていくわけです。でもこうして語り合うことで建物を取り巻く人間関係が見えてきて、佐渡の文化の厚みに気付かされるんです。