(2016.04.03公開)
美しいと思う生き方がある。
司馬遼太郎が描く大村益次郎、河井継之助は、私が美しいと思う人物。孤独に打ち勝ち、無骨なまでに信念を貫く姿勢がなんとも美しい。俗念を打ち払うことが容易ではない自分にとって、美しい生き方は、荒海を照らす灯台なのだ。
ジャン・ジオノ作の「木を植えた男」の登場人物もそのひとりだ。「木を植えた男」はフランスの山岳地帯にただ一人とどまり、荒れはてた地を緑の森によみがえらせたエルゼアール・ブフィエの半生を、旅人である著者が見つめ描いた作品だ。エルゼアール・ブフィエは、たった一人で、その肉体と精神のかぎりをつくして、荒れ果てた地を、理想郷としてよみがえらせ、多くの人に幸せをもたらした名もない年老いた農夫である。家族を亡くして、天涯孤独の身となった彼は、長年厳しい自然の中で過ごしてきた事を鑑み、木を植えるという仕事に余生を捧げる決心をする。その間、二つの大きな戦争があったが、彼は戦争と関わりあいを持たなかった。自らの野望のために戦争を始めたヒトラー、片や木を植え続けた男。悪魔の行いと神の行い。人間は悪魔にも神にもなれる。
どんな成功のかげにも、逆境にうちかつ苦労があり、どんなに激しい情熱を傾けようと、勝利が確実になるまでには、ときに絶望とたたかわなくてはならぬことを知るべきだった。
(ジャン・ジオノ作、寺岡襄訳『木を植えた男』あすなろ書房、1989)
私は人生で迷いが生じると、幾度となくこの本をひらいている。不毛の地に木を植え続けること…「何もできない」と嘆くのではなく、なにごとか、できることを実行する、やりぬくことの崇高さと美しさを彼の行いに感じ、人間が生きていくことの意味を再確認するのだ。
今を生きる私たちは、性急に結果を求められ、誰もがプレイヤーになりたがり、また自らも短期的な結果にこだわっているように思う。回り道をしたり、悶々と悩んだりして目の前のことにとにかく取り組むという時間を積み重ねの大切さを忘れてはいないだろうか?木を植えるような、気の遠くなる時間の積み重ねこそが、道を開き、生きてきた証を残すことなのだと思う。また、その時間は孤独との闘いでもある。近年は「協働の時代」と言われるようになり、仲間と価値観を共有することが重んじられているが、一人の人間としての「個」を確立しないまま、ムードに流されているように感じることがある。生ぬるい仲間に甘んじていてはいけない。「個」の確立には、ある種の孤独が必要で、その孤独の時間に内省と研鑽を積むことこそが、人間の輪郭を形作るのだと思う。孤独に耐えてこそ、仲間の意味が理解でき、自分の役割を自覚し、人を愛することができるようになるのだ。
さて、ここまで書いてきた自分は、果たして美しく生きているか?
エルゼアール・ブフィエが嵐に苗木を全滅させられてもあきらめることなく植え続けた情熱を、私は持ちえているだろうか?人生も折り返して久しい今、まだまだ情けないくらいに道半ばだ。結果の見えない現実を謙虚に受け止め挑戦しつづけること、無様でもいいから最後の瞬間まで美しく生きたいと願っている。
最後に、「木を植えた男」は、フレデリック・パックのパステル画による挿絵が大変美しい。彼が手がけた同名の短編アニメーションは、1987年アカデミー賞短編映画賞を受賞した名作だ。まだという方は是非、ご覧になっていただきたい。