(2018.11.04公開)
徳島県と題したものの、徳島の話ではない。ローカルカラーとエキゾチシズムの効果についての話である。
徳島出身者はそんなに知らないが、何人かとは話したことがある。みなさんそんなにお洒落なかたではない。かといって野暮ったいというわけでもない。ひとりは、高円寺の阿波踊りで賞を貰うほどの踊り手で、身のこなしにも優雅さとキレがある。しかし決して派手ではないし、どちらかといえば、おおらかで、奥ゆかしいかたが多い。いや、そう思っていた。ところが、意外と徳島人は奇抜なモノ好きなのかもしれない。
そんなことを思ったのは、先日、東京は渋谷にある、徳島県のアンテナショップを訪れたからだ。アンテナショップというよりも、ドミトリー形式の宿泊所とレストラン、バーが一緒になった施設で、その片隅で、県の農産物も売っている。オープンでフレンドリーなスタッフたちの迎えるお店に、金時豚や阿波牛など県産品を洋風にアレンジした小皿のメニューが並ぶ。飲み物だって「RISE&WINとコラボしたオリジナルクラフトビール、AWAジンなどのクラフトジンやカクテル、柚子やすだちのジュース」等々、名前を聞くだにそそられる。近所の、神泉界隈に連なる小洒落た呑み屋さんに対しても遜色ない。外国のバックパッカーだけでなく、ネクタイ姿のサラリーマンも入り交じるが、全体にお客の年齢層は低めでお洒落である。普段、京都で生活感あふれる高齢者と学生ばかり見慣れているせいか、ちょっとこの華やいだ若々しい雰囲気に気圧されてしまう。さすが東京なのか、あるいはこれぞ徳島というべきか。いや、これは東京だからとか徳島だからという理由ではない。むしろ東京と徳島という組み合わせのせいだろう。
最近、地方色や地域性のことを調べていることもあって、各県のアンテナショップとか県の施設には気がひかれる。東京にはいろんな県の宿泊所や研修施設があって、島根県や富山県の宿泊所に泊まったこともある。島根の施設にはきちんと出雲大社のポスターが貼ってあり、香川県の施設では朝からうどんが食べられた。しかしいずれも共通しているのは、良くも悪くも公共の宿らしい、古めかしい建物とおきまりのサーヴィスで、その無骨さが好ましかった。
徳島もそうだと思っていた。そうであってほしかった。徳島というからには、藍染め暖簾をくぐれば、渦潮とかずら橋のポスターに出迎えられ、スタッフたちの軽やかな阿波踊りのステップとともに、たらいうどんが供されることを期待していたのに。肩すかしである。なんだ、この青臭さは。ベンチャー風のヘラヘラした青年がスタッフに「ここトガッテますねぇ」とかおべんちゃらをいっているではないか。地方自治体の質実な出張所に慣れていたところに、突如、爽やかなすだちの香りただよう徳島の情報発信拠点が現れたのだ。いずれにせよ、あれれ、という不思議な感じはつきまとう。これが成功なのか、失敗なのか、よくわからない。きっと吉野川に剣山、人形芝居、金長狸といった徳島の紋切り型イメージを強く刷り込まれすぎていたのだろう。タヌキに化かされた気分だ。
渋谷も昔は江戸・東京の外れにあって、京阪に近い蜂須賀家25万石の城下町よりもずっと田舎くさかっただろうし、阿波の小松島に劣らずたくさんのタヌキもいただろう。しかしその鄙びた渋谷村が町になって100年あまり。いつのまにか徳島と地位が逆転し、さらにはギャップが大きくなってきた。そのギャップが、この徳島の「食とライフスタイル」をテーマとした「オーベルジュ・イン・ザ・シティ」のなんとも不思議なありように反映している。キッチュな魅力とでもいえばよいのだろうか。いややっぱり徳島と渋谷のタヌキに化かされたのだ。ただ、化かされたとしても、決して悪い雰囲気ではない。なんだろう、近いものとしては、外国の日本料理店を見たときの感じだろうか。異文化接触時のエキゾティシズムさえある。
都会に出てきた田舎者を描いた作品に、『パリのアメリカ人』というG. ガーシュインの音楽(1928年)、そしてまたそれを主題曲に使ったM.G.Mのミュージカル『巴里のアメリカ人』(1951年)がある。20世紀も半ばまではパリといえばまだまだ文化的に先進的な街のイメージがあって、アメリカ映画で描かれるパリは、芸術家や哲学者たちがタバコの煙に囲まれ、気の利いた台詞を競っている場所だった。『パリの恋人』(1957年)ではモデルの卵(A. ヘップバーン)がパリの哲学者にかぶれる話だし、『巴里のアメリカ人』の主人公ジェリー(ジーン・ケリー)も絵描きを目指す若者である。ベレー帽をかぶり、バゲットを抱えながら、アメリカ人ジェリーがあまりにも元気よく踊りまくる映画だ。パリに来たアメリカ人と言えば、もっとむかしに、その先輩がいる。1720年代にパリに来て、ルイ15世に謁見したシカグーというネイティヴ・アメリカンの酋長である。このインド人(当時の西洋人にとっての西インド人、つまり、アメリカ・インディアン)はパリの劇場イタリア座で仲間と踊りを披露して、作曲家ラモーが『優雅なインド』というオペラを書くきっかけになった。西インドからパリに来たインド人、そして映画の中でパリに来たアメリカ人、どちらもスノッブなパリ人から見たら田舎の野蛮人だが、それでも堂々とパリで踊っている。決してパリの風景に同化することはなく、むしろその異質な様子がまわりを圧倒する。ラモーのオペラのインド人も、ミュージカルのアメリカ人も、その「野蛮」を洗練させて巧みに趣向と化しているが、それがかえって都会が取り込もうとしても取り込みきれない何ものかを感づかせる。文化的なズレは、さりげない表現、意図しない見え方のほうが、かえって効果を発揮する。使い古され、ひからびた紋切り型のなかに、ちょっとしたナマもの、たとえば踊るインド人やアメリカ人の肉体、あるいは徳島すだちがあれば、その紋切り型はいきなり生気を帯びてくる。それこそがエキゾティシズムの魔法である。優雅なインド人や筋肉質のアメリカ人がパリで踊ったように、優雅な阿波タヌキが渋谷で踊って人を化かしていても、その不思議には魅せられる。
画像キャプション
Louis-René Boquet, maquette de costume pour les Indes Galantes, 1770. Source gallica.bnf.fr / Bibliothèque nationale de France