(2018.10.14公開)
三年くらい前の初春、市のはずれの町をあてずっぽに歩いていて、はっと足を止めたことがある。
路上で子供が群れて遊ぶ声が聞こえたからだ。
それがどうした、と思われるかもしれないが、ひどく長いあいだ子供の遊ぶ声を耳にしていなかったことに気づいたのだった。
自分が子供をもっていれば学校に近づく機会があるから、子供の群れ遊ぶ声は親しいものなのかもしれない。しかしわたしがそのとき軽い驚きにとらわれたのは、自分が家庭をもっていない人間であるせいばかりともあながち言いきれない気がしたのである。
子供が路上で遊ぶ声は、一九六〇年代から七〇年代にかけて子供だった自分の声であり、路上で遊ぶすべての子供の声でもあった。それはいつのまにか自分の耳から遠くなってしまっていた。
子供の声、無名の子供の声が出てくる詩を思い出す。
まずは中也の詩だ。中原中也が二十歳そこそこで書いた詩に「臨終」というのがある。四行×四聯の古典的な形式の文語の作品である。実は十代の頃、いちばん好きな中也の詩だった。要約するのはめんどうなのでぜんぶを引用する。
秋空は鈍色にして
黒馬の瞳のひかり
水涸れて落つる百合花
あゝ こころうつろなるかな
神もなくしるべもなくて
窓近く婦の逝きぬ
白き空盲いてありて
白き風冷たくありぬ
窓際に髪を洗えば
その腕の優しくありぬ
朝の日は澪れてありぬ
水の音したたりてゐぬ
町々はさやぎてありぬ
子等の声もつれてありぬ
しかはあれ この魂はいかにとなるか?
うすらぎて 空となるか?
この「婦」について、横浜の娼婦をモデルにしたものだという説をどこかで読んだ記憶があるが、今はその文献を挙げることができない。とにかく、薄幸な女性が、おそらくはひとりで死んでいったのである。十代のわたしは、髪を洗う「その腕」のイメージのかすかなエロティシズムに惹かれた面もあっただろう。
その女の昇天したとき、町は関係ないもののごとくにざわめいていた。そして、死にゆく女の耳に「子等の声」が聞こえてくる。「もつれて」とあるのだから、それは複数の声であろう。複数の子供が遊ぶ声。
わたしはこの詩を愛好して以来、自分が死ぬときは町のざわめきにまじってかすかな子供の遊ぶ声が聞こえればいいのに、と思うようになった。それはいまも変わらない。
「遊ぶ子供の声」という語句は、もちろん『梁塵秘抄』のものである。
遊びをせんとや生まれけむ
戯れせんとや生まれけん
遊ぶ子どもの声きけば
わが身さへこそゆるがるれ
「ゆるがるれ」には、「なつかしい」というような緩やかで懐古的な感情よりもっと何かはげしいものがある。驚きをともなった心身の動揺である。子供の声は不意に意識の間隙を襲い、固まっている自己同一性と四肢をゆりうごかす。
T.S.エリオットの『四つの四重奏』の「バーント・ノートン」は、時間をめぐる抽象的な思念と非常に個別的な記憶が波の干満のように行き来する長編詩である。「Ⅰ」では後半に「わたしたち」が庭園を散策し、涸れた池を見下ろす。すると水と陽の光のなかで「行きなさい」と鳥が言う。
行きなさい、と鳥が言った、子供たちは繁みにいて
笑いをこらえながら身をひそめているから。
行きなさい、さあ、さあ、と鳥が言った。人間は
あまり多くの真実には耐えられないのです。
この子供たちは、連作詩の末尾にふたたびあらわれる。「言葉は動く、音楽は動く」ではじまる「Ⅴ」、言葉のもろさと、時間の中での「愛」と「欲望」を思惟する詩行を断ち切るようにして。
突然、一条の陽光に
塵の舞うそのあいだ
葉叢に隠れた子供たちの
忍び笑いの声が聞こえる。
さ、疾く、ここだ、今だ、いつも――
不毛の悲しい時間が愚かしくも
前にも後ろにも伸びている。
Sudden in a shaft of sunlight
Even while the dust moves
There rises the hidden laughter
Of children in the foliage
Quick now, here, now, always—
Ridiculous the waste sad time
Stretching before and after.
エリオットの詩にあらわれるのは繁みにかくれている子供たちのくすくす笑いであって、「遊ぶ子供の声」とはちがう。だが現実とはことなる超越的な場から聞こえてくる、おろかしい大人を驚かせる無名の声という点では一緒ではないか。Quick now, here, now, alwaysという謎めいた、5つの単純な単語の羅列は子供たちが発したものと読める。それともちがう声の侵入なのか。
エリオットは大詩人だから、この作品にもおそらく数多い注釈や評釈があるにちがいない。英語英文学に疎いわたしはそれらを調べる手立てと時間を今はもたない。いつか「遊ぶ子供の声」というタイトルで、ある程度の分量をもった比較文学的なエッセイをものしたいと夢見ている。そのためには素材も考察もまだぜんぜん足りない。情けないことにここに挙げた三篇の詩だけなのだ。こんな詩もあるよ、とご教示いただけたら本当にうれしい。
*引用は以下による。
河上徹太郎編『中原中也詩集』角川文庫、昭和四三年。
新潮日本古典集成『梁塵秘抄』昭和五四年。
T・S・エリオット『四つの四重奏』岩崎宗治訳、岩波文庫、二〇一一年。
T.S.ELIOT, Four Quartets, Faber and Faber, 1959.