アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

空を描く 週変わりコラム、リレーコラム

TOP >>  空を描く
このページをシェア Twitter facebook
#288

未来世紀オリエント
― 上村博

orient

(2018.10.07公開)

西洋の人々がアジアやアフリカに出かけるようになって久しい。とはいえ、ここ150年ほどのあいだに随分と行き来が便利になった。それにともなって、彼らが文学や舞台、また映画などで、東アジアの国々を描写することも増えてきた。その描かれ方には、いろんなものがある。平和で長閑な桃源郷であったり、活気溢れる雑踏であったりする。それらはもちろん西洋人の目に映ったものである。人はなべて自分の見たいものを見がちなだけに、奇妙なファッション、滑稽な仕草さ、野蛮な風習などがピック・アップされやすい。いわゆるオリエンタリズムの視線によって作られた像である。つまり、おおよそでいえば、クールで近代的な都会の男性が、ナイーヴで前近代的な田舎の女性を見るような、同情と欲情の混じった上から目線のイメージである。困ったことに、そうした勘違い野郎は欧米人に限らず、東洋人にも、アフリカ人にもオセアニア人にもいるのだが。そんな勘違いのおおもとは、「自分」というアイデンティティの寄る辺無さである。実際、自分が何者であるか、という拠り所はまことに頼りない。それを少しでも確かにしようとすると、自分とは異なる者、異邦人や敵対者を(低めに)設定すると安心するのだろう。こうして、たとえばピエール・ロチの描くような、無知で素朴で、ときどき小狡いものの結局のところは可愛らしいオリエントの女性像が出来上がる。豪奢で静かな、そして欲望のオリエントだ。
しかし、そうはいっても、たとえば東アジアを現実に旅すると、欧米人だっていろいろと教わるものは多い。実在するものはただ空想されたものとは異なって、期待外れや期待以上の体験も与えてくれる。中国や日本の旅行記を見ても、決して最初から色眼鏡で見ているばかりではない。あらかじめ刷り込まれた像を見て満足するだけでないのは、研究者もツーリストも同じである。実際、19世紀のオリエント旅行者が発見したアジアは実に多彩で、紋切り型に収まらない。たとえばイザベラ・バードの記述も驚きに溢れている。異邦人の見聞には教えられるものも多いが、他方で勿論、誤解や偏見は避けられない。しかしそんなものは、バードがイギリス人だからということではなく、当のアジア人でも同様で、旅して気づくことの粗密や偏りはそれぞれの立場と知見次第である。
ところで、30年ほど前から、20世紀初めまでに作られたオリエントのイメージを大きく覆すように見えるオリエント像が現出している。それは、いわば未来派的オリエントとでもいうべき、高層ビル、デジタル画像、ハイテク製品に溢れたオリエント都市である。今や、西洋人だろうと東洋人だろうと、ドバイ、シンガポール、香港、上海、東京の名前を聞いて思い浮かべるのは、空を突く高層ビルの林立する大都市である。もはや、ゆったりした衣服に身を包み、キセルをくわえた老人の街ではないだろう。実際、映画のロケでも絵のような農村や古都ばかりが選ばれるわけではない。『ラストサムライ』(2003)や『SAYURI』(2005)のように昔の日本を舞台にしたものはともかく、『ブラックレイン』(1989)の大阪、『インセプション』(2010)の東京は普通に今日の大都市である。『ハンテッド』(1995)や『キル・ビル vol.1』(2003)のように依然として不思議なエキゾチック・ジャパンを前面に出したものでも、刺客や忍者がチャンバラするシーンは近代的なビルや新幹線の中である。そして最後に挙げたふたつのアクション映画がまさにそうだが、近代的な都市の像と奇妙なコスチュームや道具とのギャップこそ、キッチュで面白い見物となる。これはまた、実際の日本や中国ということではないが、架空の都市でも同様である。『ブレードランナー』(1982年)のロス・アンジェルス、『スワロウテイル』(1996)の円都(イェンタウン)は、それぞれ実在の都市を思わせるものの、人工的な大都市と混沌としたアジアンテイストがないまぜになっている。
こうした、1980年代以降のオリエンタルな都市のイメージを、表面的なポスト・オリエンタリズム(紋切り型のオリエンタリズム批判論)の枠内で説明してみることは簡単である。たとえば、過去であれ、未来であれ、オリエンタルな都市は「他者」の住む場所なのであって、パゴダやピラミッドのかわりに超高層ビル群が描かれていても、それは非人間的な(つまりは非西洋人的な)不気味な異空間なのだ、ということになろう。しかし、それだけなのだろうか。SF的な未来都市はUFOに乗った宇宙人や日本刀を携えたアジア人が行き来する異世界で、そこに足を踏み入れた西洋人(つまり人間)が、好奇心、冒険心とともに、恐怖心や差別意識を感じることで、自己のアイデンティティをあらためて確認するためのものなのか。
20世紀半ばにニュー・ヨークを訪れたフランス人サルトルは、新世界の高層ビル群に目を瞠った。そもそもアメリカ大陸なので、旧大陸からするとオリエンタルな野蛮な土地かもしれないが、彼の着眼点はちょっと違う。それは何よりもニュー・ヨークの活気であり、街区に沿いつつも、それぞれ勝手に聳え立つビル群の示す自由さである。おそらくそれは欧州の旧市街の閉塞性とは別の、街のなかで大いに自分らしく振る舞うことのできるのびやかさでもあろう。さまざまな人間が寄り集まって巨大な街を形作り、その奥まった隅々で銘々が棲息する街である。この、膨大な空間量と奥行きの深さこそ、サルトルならずともアメリカ大陸にやってきた旅行者たちや、またとりわけ移民たちが、ニュー・ヨークに惹かれる理由ではないだろうか。
そして旅人に関して言えば、実は、ニュー・ヨークの摩天楼だけでなく、香港の雑居ビルでも、歌舞伎町の飲食店街でも、似たような感覚が得られるのではないか。アジアの近代都市も、摩訶不思議な黄色人種が棲息する異郷というだけではない。旅行者は、その重畳する建造物に紛れ込むことで、現実の持つ無数の感覚のざわめきに接し、あらためて自分の経験に清新な真正さを感じ取る。かつて来日したレヴィ=ストロースは、東京の込み入った街路に心惹かれた。この見通しの利かない深度こそ、オリエンタルな都市像が含み持っているものだろう。オリエンタリズムは他者との対照によって自分のアイデンティティを構成するためのものだけではない。それは、未知の奥行きのある世界の探求であって、自分の本来あるべき経験のありかをたずねる態度でもある。だからこそ、オリエンタリズムと観光旅行はきわめて相性が良いのである。ツーリストたちは搾取や差別という視線をのみ向けるのではない。むしろ、自分の居場所を異郷に求めているのである。アジアの近未来都市は、旅人をその懐に包み込む。林立する高層ビル群はその宏壮な空間量によって、そしてまた蝟集する建物や屈曲する路地はその奥深さによって、そこを訪れる者に自由な空気を呼吸させてくれる。かつての「都市の空気は自由にする」Stadtluft macht freiという西洋の言葉は、不自由な身分の農村の人々が都市で解放されるということを指していたが、しかし、その文字どおりに、オリエンタルな都市は人を自由にする空気の通う場所かもしれない。