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アネモメトリ -風の手帖-

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#232

東京ラーメン
― 上村博

東京ラーメン

(2017.09.10公開)

「東京ラーメン」というタイトルだが、「東京の」ラーメンについて語れるほどの蘊蓄はない。またB級グルメでも麺類の話題でもない。東京のラーメンについてというより、「東京ラーメン」のように、地名を冠するお店や食べ物の話である。上の写真も、勿論イタリアのナポリのお店ではない。
随分前に閉店してしまったが、むかし京都の万里小路通に「東京ラーメン」という店があった。狭いカウンター、そしてわずか2〜3畳ほどの小上がりの座敷しかない店内は、お昼時になるとすぐにタクシーの運転手や京大の職員で一杯になっていた。年配の店主は悠々と鼻歌交じりにラーメンを作り、時折腰掛けて休息しながらタバコをふかしていた。彼の作るラーメンが店名の通り本当に東京ラーメンだったかどうかはわからない。しかしスープや麺がどうであれ、「東京ラーメン」というだけで、ああこれが東京なのか、と感じ入り、京都の隅っこで味わう東国の風味に夢がふくらんだ。
地名がお店の名前につくことは珍しいことではない。各国の料理ならとりわけそうで、ナポリ、リヨン、ミュンヘン、北京など、店名にどの都市が含まれているかを見るだけで料理の種類がおおよそ察せられるし、「カフェ・ド・パリ」とか「スシ・エド」なんて世界中にある。しかし、供せられる料理と店名とがそれほど関係ないときもある。これまたむかしの話で恐縮だが、京都の百万遍に「上海」という店があった。中華料理店というわけではなく、まるっきりふつうのおでん屋さんだった。非常に安くて人気があり、おばちゃんひとりでいつも忙しそうだった。おでんやお酒を頼むたびに、チョークで目の前のカウンターの縁にその数を殴り書きでメモしていくのだが、ひょっとしたらそれが上海風だったのだろうか。ともかく、いかにもおでん屋さんらしからぬ「上海」という名前が、おでんの味にチョークの粉だけでなく一抹の妖しさも加えていたような気もする。
地名が独特の感覚的な性格を表しているのは、何も飲食店の名前に限らない。これはむしろ古い文化的伝統であり、古代の詩歌や音楽でも、国名や地方名がスタイルを示す名前として使われた。『詩経』「国風」に収められた歌謡もそうだし、日本の雅楽でも唐楽、高麗楽、国風歌舞など、インターナショナルな歌舞音曲が並んでいる。西洋音楽ではリュディア旋法、プリュギア旋法といった名前の音階や、トルコ風、ドイツ風といった楽想がある。建築のオーダーにもコリュントスやトスカーナなどの地名由来のものがあり、土地と芸術的スタイルの関連づけは古くから意識されてきた。しかしそれらに劣らず、いやそれらにも増して、飲食店に使われる地名には多様性とそこに込められた期待や幻想が伴っている。

ところで、人気のある観光地や情報が多い都市になると、さらにその一部の地区や街路が用いられることがある。サン=ジェルマン=デ=プレ、明洞、嵯峨野などである。反対に、あまり馴染みのない遠い場所だと、都市名というよりもっと大づかみな地域名、国名も使われる(ブラジルとか、アラスカとか)。この地域の範囲が広いか狭いかは、どこまで細かく地域のイメージが識別されているかによる。そして飲食店名として選ばれる場所が時代によって変わるように、その範囲の広さも時代によっても変化する。
たとえば東京の地名もそうである。50年前にとか南青山とか代官山といっても日本全国でそれがどのような土地なのかという認知度は乏しかかっただろう。いまではメディアのおかげでそれら個々の場所が広く認知されている。他方で逆に「東京」という大きな括りで意識されることは減ったのではないか。そして少なくとも飲食店名についてはストレートに「東京」とつけることは流行らなくなったように思われる。
今もあるかどうかわからないが、かつて新潟駅近くで寒さに凍えつつ「東京」という喫茶店に駆け込んだことがある。花の大都市東京の名を冠したそのお店は、しかし「カフェ・ド・パリ」風のうすっぺらい感じではなく、「東京」という2文字がしんみりと昭和の風情を醸し出していた。それは「東京ラーメン」の店主の鼻歌にも似て、くたびれていて、かつ渋く、しかし実に落ち着きのあるたたずまいの店だった。まだ新幹線が開通する前に味わった雪国の駅前の旅情は、「東京」という漢字を見るとき、今もたまさかによみがえる。