(2017.08.27公開)
私事になるが、子供の頃、ヨハン・セバスチャン・バッハ(1685~1750)という作曲家の「カンタータ」という一連の作品を好んで聴いていた。ドイツ語の知識がなかったので歌詞の意味はよく分からなかったけれど、そのリズミカルな曲調は身体に心地よく響いた。高校生になった頃、これらの作品がプロテスタント教会の礼拝で歌われる「コラール」という賛美歌を素材にしていることを初めて知った。ルター派であったバッハは「受難曲」や「オラトリオ」など他のジャンルでも「コラール」を使って作曲している。十八世紀ドイツの宗教社会を背景にバッハの作品の多くが神への祈りから生まれたことは、キリスト教と縁の薄い自分には単純に驚きでもあった。以来「カンタータ」から感じられるものが全く変わったのだが、そのことは不思議な体験として記憶に残っている。
「音楽は国境を越える」とはよく言われる。音楽は異なる背景を持つ人々の心を一つに繋ぐことができるということだ。素晴らしい音楽に出会うと、音楽が宗教や民族や言語などの様々な境界を凌駕する存在のように感じたりする。子供の頃、私の心に響いた「カンタータ」も純粋にサウンドとしてのバッハの音楽の素晴らしさを感じさせるものであっただろう。一方で、作品の背景を知って「カンタータ」の感じ方が一変した体験が示すように、踏み込んだ理解をするにはどうしても学習が必要になってくる。言うまでもなく、音楽はその音楽の成立した文化と密接に結びつき、固有の音楽観を持っているからだ。バッハにはバッハの、教会音楽には教会音楽の、さらにジャズにはジャズの、長唄には長唄の音楽観がある。音楽の楽しさは音楽には様々な境界があることを認識することから始まるのかもしれない、とも思う。
そもそも、「音楽は国境を越える」をめぐる観念は、岡田暁生氏によれば十九世紀の産物だという(1)。民族独立運動の機運が高まり、「国民」が主体となった国家が新たに形成されたこの時期に、近代的な意味での国境の概念が誕生したからである。近代における音楽の新しい役割は、民族を結集させ、民族に国境を認識させ、民族に国民としてのアイデンティティを感じさせることであった。例えば、日本でも幕藩体制が崩れた明治時代に、「国歌」や「小学唱歌」などが作られ、音楽に国民のアイデンティティを求めようとする新しい動きが生じている。だから、近代的な思考においては、国家と国家の境界である国境が音楽を大きく支配していることになる。そして、自国の音楽を世界に広めることが、自らの文化を普遍化させることに繋がった。日本でも「国歌」や「小学唱歌」が植民地教育の媒体となり、台湾や中国などのアジア諸国へ伝播していったという歴史がある。
グローバル化が進み、社会体制が均一化する現代では、私たちが境界として認識する事柄は国家や宗教、民族、言語などに留まらず変化してきている。インターネット環境におけるオンラインとオフライン、日常生活におけるオンとオフなども境界として捉えられるだろう。そして、あらゆる境界をいかに超えるのかということが現代の大きな関心事の一つとなり、「ボーダレス」の時代を迎えようとしている。そのなかで、音楽は一体どのような道を歩むのか。「音楽は国境を越える」をめぐる観念は、これからも広がりを見せるに違いない。
(1)岡田暁生『音楽の聴き方』(中央公論新社、2009年)による。