(2017.07.16公開)
“ALL ART HAS BEEN CONTEMPORARY”――「あらゆる芸術は現代芸術だった」。トリノ市立近現代美術館の屋根には、そう書かれた鮮やかな青いネオンの文字列が掲げられている。美術館の入口から見上げると、ちょうど見えるような位置にあって、以前、滞在しながらしばらくこの美術館の付属施設で調査していたとき、幾度となく目にしていた。それ故、すっかり見知った気になっていたのだが、どうも私はまったく誤解して記憶していたようだ…と、日本に帰ってきて、写真をまじまじと眺めてから気づいた。
この文字列は、イタリアのコンセプチュアル・アーティスト、マウリツィオ・ナンヌッチの作品である。この美術館の他にも、ベルリンの旧博物館の正面玄関に、字体やネオンの色が異なる同じフレーズの作品が、一時設置されていたそうだ。設置される場所によって、それを眼にした鑑賞者にその意味を問いかける作品になっているわけだが、さて、いまこの記事を読んでいるあなたなら、この一文をどのように解釈するだろう。
字義通りに受け止めると、この言葉は、たとえば古代ギリシアの彫像や中世の祭壇画、はたまたルネサンスの絵画といった「古い」作品が、それが制作された時代においては現代芸術であった、という事実を示唆していると考えられるだろう。確かに、いかなる作品も、それが制作された時代の歴史的・文化的背景を負っていることは疑いがないが、美術館に収蔵されたあとの姿から、その事実を思い起こすことは時として難しい。それ故、この一文によって、その事実が現代の鑑賞者に、改めて喚起されることになる。
だが私はこの作品の一文を、「ALL ART IS CONTEMPORARY(あらゆる芸術は現代芸術である)」だとずっと思い込んでいた。時制を勘違いしていたわけだ。しかし、それだけで意味はまったく変わってしまう。美術館に収蔵されるあらゆる時代の作品が、過去にどうであったかではなくて、つねに(良くも悪くも)現代の鑑賞者に対して開かれているということ、その事実を「現代的である」と述べているのだと、私は勝手に思い込んでいた。
振り返ってみると、私がそう信じ込んでいたのは、哲学者ベネデット・クローチェが歴史について語った言葉「あらゆる真の歴史は、現代史である」(『歴史記述の理論と歴史』1917年)が頭にあったからだろう。仮にクローチェを敷衍して述べるならば、芸術作品は、それを見る人間によって、新しい解釈と評価に絶えず晒され続けると同時に、その人物のものの見方や価値観さえも変えてしまう契機を秘めている。その意味では、作品というのは、いついかなる時代に制作されたものであろうと、すべからく「現代的」なものなのではないか。
記憶というのは恐ろしいもので、どうやら私自身の先入見が随分と作品の認識を変形させてしまったようだ。そもそも、今回この作品のことを思い出したのも、前々回のエッセイから、美術館の展示の問題についてぐるぐると考えていたことが関係しているのかもしれない。ただの事実誤認に過ぎないが、自分の思考の所在を気づかせてくれたという意味では、どこにも存在しなかった幻の文字列に、感謝しても良いのかもしれない。