(2016.01.31公開)
十二月の十六日の晩、春日若宮おん祭を見に奈良へ行った。祭が始まるのは十七日の午前零時ということなので、京都からは余裕を見て十時位に車で出ることにした。
この祭の来歴についてはあまり知らなかったし、今もそう詳しくなったわけではないので、ここで細かく記すことはしない。暗闇で行われる神秘な行事があると、何人かから聞いていたので、ただそれだけの興味で行ってみたのだ。
国道二十四号線を南下して奈良に向かった。普通の人は翌日も仕事がある平日である。途中の街でそこに住む友人のことを思い出したが、深夜の祭に誘うのはやめた。京奈和自動車道のナトリウムランプが、白い息に滲みながら流れてゆく淋しい深夜である。車通りも少ない。
奈良の街に入っても、その淋しさは変わらなかった。著名な祭があるというのに、明かりの少ない街は閑散としている。大仏前の辺りに百円パーキングを見つけて車を入れた。誰もいない。この辺りは休日の昼間は大勢の観光客で賑わうところだ。以前近くに住んでいたこともあったので、飛火野の広がりと雑踏がつくりだす明るさに慣れていたのだが、この晩たどりついたそこは、誰もいない真っ暗なところだった。人の姿も声もなく、時たま遠く鹿の声が聴こえるのみである。駐車場の看板の照明の他に灯りはなく、目の前の奈良公園は芒漠とした闇である。車から出ると、刺すような寒さが降りてくるようだった。思えばここは街とも公園とも境内ともつかぬ場所なのだ。賑わいを失ったそこは、すでにどこでもない、境界的な場所としての性格を取り戻すのかもしれなかった。若宮おん祭が行われる春日大社に行くには、この暗闇にまず入らなくてはならない。LED式の小さなヘッドランプを頭に着けて、暗い方に向かった。
森の中の道に入る。さっきまで誰もいなかったのに、ところどころに身を寄せ合うようにして歩いている人々の影があった。両側に真っ黒な木立が並ぶ中、懐中電灯の明かりが砂利道を点々と照らしている。森の方に頭を向けると、鹿たちの眼がいくつも動いた。行くほどに人の姿は増え、声も聴こえてきた。少しほっとした気持ちになる。明るい気持ちになってきたのは、人影に出会えたせいだけでもないようだった。気づくと、森の中の広い砂利道にあかるい場所がまだらに連なっていた。眼が慣れてきて初めて判ったのだが、月明かりが木々の梢の隙間から差し込んできていたのだ。後ろから照らしている月の明るさに驚きながら、ヘッドランプを消した。
道を行くと、人々が二列に並んでいるところに行き着いた。その最後尾に着くように促される。どうやら道の両側に並んで、神がその道を行くのを見送るのだそうである。おん祭の始まりとなる「遷幸の儀」だ。十一時時過ぎ、まだ列はざわついている。そこかしこから連れと交わし合う声が聞こえてくる。懐中電灯や懐中電灯の灯りがいろいろなところで、灯っては消えたりする。暗がりに慣れた眼に眩しく感じられた。
そうこうするうちに、人々のざわめきの向こう側から、おおおというような声のようなものが本当にかすかにだが渡ってきた。時折聴こえる自動車の音や飛行機の音のようにも思われたが、それは減衰していくことなく、緩やかに波打ちながら少しずつ近づいてくるようだった。間遠に打ち鳴らされる太い太鼓の音が聴こえてくると、それはこの祭に関わる音声であることが確信されてきた。
その声が聴こえてくるように思われる道の先を、眼で探る。黒々とした木々の下に時折人工光を放つ人の列があり、その奥に眼を凝らすのだ。敏感になった眼には、暗がりの濃淡も映る。おおおという声は一層輪郭をもったものになってくるとともに、なんだかわからない暗いゆらめきが尖り始めた視野を覆い始めた。少し気が遠くなるような気がした。
おらぶような声がはっきり聴き取れるようになり、誰もがそちらに顔を向け始めた。携帯電話や懐中電灯の光が少しずつ鎮まり、空気が張りつめていく。ふたつの炎が見えてきた。ふたりの神官がそれぞれ、一間はあろうかという松明を引きずって私たちの間を通っていく。旧軍の軍服のような服装の中年男が神官のすぐ後ろを歩く。胸から顔のあたりがあかあかと照らし出されている。男は時折松明を杖のような棒で叩く。松明からこぼれ落ちた火が、暗い道に日本の轍を残していく。神官たちが通り抜ける頃には、おおおという男たちの声はもう耳元まで来ているかのようだった。何人もの男たちの低い声がそれぞれ山なりに長く発され重なっていく。それは私たちの言葉をつくる声でもなく、歌をつくる声でもないものだった。
衣も顔も白い男たちがそんな声であたりを圧するようにしてやってきた。その塊の上に突出て白いものがあった。そこに神がいるのだと思った。その周りを雲のように白い男たちと層状の声とが覆っているのだ。先の松明のせいもあるのだろうか、その白くて大きなものは、どこか芒漠とけぶって見えた。その曖昧な塊がうなりをあげて通っていく時、体が激しく震えたのは、厳しくなってきた寒さのせいだけではなかったろう。畏ろしいものが通ったのだと思った。
それから信徒たちの列が、それぞれおおお、と口ずさみながら続いた。それは先の闇を押しのけていくような硬い音声とは異なり、馴染みのある人の世の声だった。その列が行くころには、白くけぶったものは月明かりとしての輪郭を取り戻していた。
列が行ってしまうと、今度は見物客であるわれわれがその後に回る。人々の顔を月がまともに照らし出す。いくつもの顔がまぶしく光っていた。時々人々の脚の間に、先の松明のかけらが赤々と光っているのが見えた。
列がお旅所に着いたのは一時を回るころだったろう。明るく照らし出された庭で舞を含めた神事「暁祭」がくりひろげられる。巨大な北斗七星が天空に掛かっているのを背景に、神官や舞手が行ったり来たりしていた。
祭を見る人々は先ほどの緊張から開放されたようで、場の空気は柔和に思われた。しかし、気温は一層下がり、凍りついた地面から体温を奪われる思いがした。この冷たい大気の中で祭を執り行う人々は、決して厚着には思えなかった。やはり心が違う状態になっているのだろうか。
この暁祭は午前二時を回る頃まで行われ、私はそれを一通り見届けて帰途に着いた。
春日若宮おん祭自体は、その後も十七日の深夜まで続き、さまざまな神事が執り行われるということだ。十七日昼間の稚児行列などは可愛らしいもので、多くの人が見物に来る。
この日経験した祭、特に暗闇の道で執り行われる「遷幸の儀」は、それなりの人が集まるものの、普通の仕方で観光化されたお祭りとは大きく異なったものだった。知覚してはならないものが間近を通るのを感じる、そういう場が作り出されていたように思った。
以上は2010年の一月に、詩誌『tab』のために書いたものを改稿したものである。この夜の印象はきわめて強いもので、その後ほとんど毎年、春日大社に通うようになった。昨年の十二月にももちろん行ってきた。つい一月前のことである。そのことを書こうかとも思ったのだが、初見の時の印象が刻まれているこのテキストに若くまいと思い、過日の文章を紹介いたした次第である。
通ううちに変わったのは、十六日深夜の「遷幸の儀」ではなく、十七日午後十二時に神が神殿に帰る、「還幸の儀」を見るようになったことである。これもまた深夜の森の中を同じように帰っていくのだが、この時は参道に立つ観光客はほとんどいない。つめたく白くけぶるような神に出会うまたとない機会である。是非一度経験されたい。