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アネモメトリ -風の手帖-

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#115

フェティッシュと有用性
― 上村博

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(2015.06.07公開)

むかし、ひょんな行きがかりから、専門外ながらフランスの建築学会の小さな集まりでお話をすることがあった。そのあと主催者がなぜかインド料理屋さんでカレーを御馳走してくれた。食事中の雑談のなかで、どうしてフランス人と日本人は芸術に熱心なのかという質問を受けた。特にそんなことを思ったことはなかったものの、いわれてみると確かにそうかもしれない。

芸術を生み出す人々は他の国、地域にもたくさんいる。しかし芸術の愛好者が多いのはフランスと日本かもしれない。日本には自国の芸術はもちろんあるが、それと同様に、あるいはそれ以上に外国の美術や音楽や文学を大好きな人々がいる。それは展覧会の行列からも音楽の売り上げ数からも如実である。フランスだって自国で作る以上に愛好の度合いが強く、たとえばパリの数ある演奏会ではフランス人作曲家よりもドイツ人、イタリア人、ロシア人の作品で埋め尽くされている。フランスで活躍したピカソもダリもフジタも外国人だった。芸術愛好家の多いところに自然と芸術家は集まってくる。
カレーを食べつつそう考えて、先の質問にこう答えた。フランス人も日本人もきっとフェティシストなんだろう、と。

芸術作品はモノ、あるいは感覚的対象という側面がどうしても強くある。しかし感覚的なモノにあんまり関心のない人、あるいは文化もあろう。スピリチュアルな、禁欲的な、抽象的な文化圏では物的な対象や感覚的な表現が軽んじられたり、さらには排除されたりする。それに対して、感覚的・官能的なモノやイメージが大量にあふれる土地もある。日仏ともに、モノへの愛好、こだわりは強いほうと言っても良いだろう。といっても、ただモノを愛好するというだけではない。単に暮らしの中でモノを愛でるというのではなく、もうちょっと生活からズレたところにその愛着が向かうきらいがあるのではないか。有用な品物を大事にする、ということと、モノを生活実践から外れて、モノゆえに愛好するというのは少し違う。それこそモノ好きであり、つまりはフェティッシュなのだ。
フェティッシュ fetish という語は、もともと中央アフリカのモノの形をとった神霊を指していたらしい。それはモノとして目の前に存在する、大概は木彫りの神様なのだが、キリスト教の神のように宇宙を統べる絶対的な存在とはかけはなれている。もうちょっと人間に近く、願掛けのために縄で縛らたり、釘で痛めつけられたりする、気の毒なとこともある神様である。本来、目に見えない霊的な力が彫像という物体に置き換えられているところから、フェティシズムは未熟な信仰、さらには倒錯した執着を指すようになった。
しかし芸術作品を愛好するとは、そうした倒錯に近く、それはとりたてて生活の役に立つわけでもなく、立身出世のためでもない。ただのモノ好きであり、モノに接するところにひたすら喜びを見いだすのである。勿論、芸術作品はただの物体ではなく、知覚される形式であり、表象である、という言い方もできよう。しかしそれはドイツ語圏の人たちの作った美学の建前である。建前は大事だが、多くの人間にとって、作品を愛好することは作品を鑑賞することではない。モノに対して距離を置いて知覚するというより、モノを所有したり、手で触れて玩弄するほうが大事なのである。そもそも美的な知覚を得るためだけなら、作品というモノは不要で、世界にまなざしを投げれば済むのである。

だからこそ、芸術作品はコレクションされる。コレクションは一点一点をじっくり鑑賞するというよりも、多く獲得し蓄積することが重要である。見たら終わり、ということではないし、さらには持ってさえいれば見る必要もないのである。そしてまた、コレクションの対象は芸術作品だけではない。切手、マッチ箱、包装紙、茶器、パイプ、刀剣、甲冑など、実にさまざまなものにわたる。どれもコレクションされることで、もとの有用性を失って、ただただコレクションの一部に転換される。フェティッシュの品々はそれらがかつて生きていた社会的な連関から切り離されて、ある系列を形作る品物として別の秩序を生き始める。系統づけられたモノの世界のライフ・ヒストリーが形作られ、その秩序の体系で新たな差異と価値が生まれる。
ところで、こうしたさまざまなコレクションやモノへの執着には、文化的な偏差や個人の嗜好が勿論あって、地域や時代や個人によって足先フェチや髪の毛フェチがあるように、ガトー・デ・ロワのフェーヴ(お菓子の中に埋められた陶器)のコレクターがいたり、ナイフマニアがいたりする。それらのフェティシズムの向かう先はまことに千差万別、とらえどころがないようにも見える。しかし他方で、いろんなフェティッシュなモノはあるにせよ、どの時代、どの地域にも共通して多く見られるフェティシズムもある。それは身体に強く訴えかけるものである。フェティシズムという一般的現象をしばしば代表して覆い尽くしてしまう性的なフェティシズムもそれである。性的なフェティシズムも、身体の特定の部位に視覚や嗅覚で関わるものだけでなく、身体を強く意識させるもの、たとえばゴムや合成樹脂などでできた拘束的な着衣もそうで、それはもうサディズムやマゾヒズムと接触している。
こうした身体性を強く意識させるフェティッシュは、一見したところ、ささやかな切手コレクションなどとは別物のように思われる。しかし、実際のところ、どちらにも共通する原因があるのではないだろうか。それは、自分の暮らす、いつもの生活のはかなさ、頼りなさである。コレクションの作る別世界の秩序には、この世の秩序とは違う確からしさがある。しばしば逃避と誹られる趣味的な世界は、日々の味気ないルーティン・ワークとは違った、生き生きとした、集中できる世界である。生活がまことに充実した動物であれば、そんな無用のことに熱心にはならず、ひたむきに本能に任せて生きるだろう。しかし人間ならば必ず、とまでは言えないだろうが、人間の案外多くの割合は自分の生活に心からの充足感をもって没頭できてはいないのではないか。やらされ仕事、やっつけ仕事、しがらみの多い中で、本来の自分、真正な自分の生活が本当はどこか別の場所にあるような思いがする。それがたとえば旅行になったりすることもあるかもしれない。またそれが人間社会の秩序とは違う、モノの世界への執着という形をとることもあるのではないか。そしてまた、だからこそ自分の本来の身体を取り戻そうとして、痛みや快楽を得られるモノとの接触に浸るのではないだろうか。
いかにも世間とずれたところにある無用のモノのコレクションに熱を入れる人物も、ボンデージ・ファッションの愛好者と同様に、そのなかでこそ自分が自由に生きられる身体を獲得していると考えられよう。ついでにいうと、むかしマルクスが貨幣のフェティシズムについて語ったとおり、お金を貯めるということでも、ある場合には、生きるための蓄財ではなく、ただ数字が増していくこと自体のなかに自分の生きるリアリティを感じ取る機会になるのではないだろうか。預金残高や株価のフェティシズムは増進する力の感覚と結びついている。

自分の身体性を回復する、という観点から考えれば、コレクションされる品々が、どこか使用価値の名残りを持っていることもわかりやすい。ただ眺めるためのモノではなく、その気になれば自分が使用すること、操作することができるモノが多いのである。切手やコインの蒐集もそうだが、カメラや武器のコレクションも、茶道具だってそうである。読みもしない本もそうかもしれない。基本的には使用されることがないとしても、個々のモノは自分がそれを使うシーンが想定できるものであるほうが望ましいのである。どれも自分の生活のサイクルのなかでは何ら直接の役には立たない。それらは別世界で別の役割を与えられている。だから原理的には、まったく有用性のないモノのコレクション、たとえば過去の使用済み絵葉書のコレクションだって十分可能なのである。しかしそのうえで、さらに自分の身体が関わることのできる物品であれば、コレクションの生み出す秩序とはまた別に、身体的関心からのリアリティも得させてくれるのではないだろうか。
この世の中は、右も左も窮屈な面倒さに溢れている反面、安心立命の場と言えば、案外すっからかんの希薄な頼りなさしか見当たらない。だからどこでも「実感」「体験」が求められる。フェティッシュなものにそれを求めるのも逃れがたい人性なのだ。以前にこのコラム欄に記した激辛な味覚もそうだ。
冒頭に書いたインド料理店で、そんなことを考えながらカレーを食べた。

(写真はザイールのフェティッシュ)