(2014.08.03公開)
酷暑が続く中、7月は京都の祇園祭、そして全国では八坂神社の祭礼が行われていた。この祭礼とともに、夏の風物詩といえば花火があげられるだろう。7月から8月にかけて全国各地で花火大会が催されている。ちょうど先週は東京の隅田川花火大会が催され、20000発の花火が打ち上げられた。
花火の起源を調べてみると『北条記』という史料が初見のようだ。天正13年(1585)に小田原の後北条と常陸の佐竹が下野国(現在の栃木県)で対陣していたときに慰みとして相互に敵陣へ花火を「焼立てた」とある。天文12年(1543)の鉄砲伝来とともに火薬の配合は伝えられているので、戦国時代には簡単な花火の製造技術が知られていたといえよう。但し、観賞用としての花火が確立するのは江戸時代に入ってからである。慶長18年(1613)に明国の商人がイギリス人を連れて徳川家康に拝謁した際、明人が駿府城の二の丸で花火を打ち上げて、家康が見物したという記録が残されている。
この頃から花火の技術は広がり、花火師が登場するに至る。江戸では撚花火や線香花火、流星花火、鼠花火などと子ども用の花火も流行する。今も昔も子どもにとって花火は、楽しい娯楽のひとつであった。
花火師の家といえば、『狂歌江戸名所図会』にある「たぐひなき 玉や鍵やの揚花火 驚かす目の両国の橋」にある、「玉屋」と「鍵屋」が筆頭にあげられる。今日でも花火の際、「たまゃ~、かぎやぁ~」と掛け声がかかるのは、この花火師の家のことを指す。鍵屋は、万治元年(1658)に大和国(現在の奈良県)から出て、両国横山町に店を構えた篠原弥兵衛。玉屋は、文化年間(1804~1818)に鍵屋の番頭であった清七が分家して両国吉川町で店を構えて名乗ったものだ。
そして、先にあげた狂歌にある「両国の橋」とは、江戸時代には大川と呼ばれていた現在の隅田川に掛かる両国橋のこと。旧暦5月28日からスタートする納涼期に合せて打ち上げられた大花火のことを指す。この期間は大川の川沿いに食べ物屋、見世物小屋などが軒を連ね、大勢の見物客で賑わったという。しかし、この花火、単なる遊興のために打ち上げられたものではなかった。両国の川開きの花火は、享保18年(1733)に初めて行われている。前年は江戸四大飢饉のひとつである享保の大飢饉があり、全国で餓死者が90万人にも及んだ。時を同じくして江戸ではコレラが流行し死体が市中にうち捨てられていたという。こうして亡くなった人々を供養するため、また災厄除去を祈願し行われた水神祭で花火は打ち上げられたのである。
花火の特徴といえば、人々を魅了する独特の光、そして音である。これらが亡くなった人々を慰めると考えられていたのだ。
こうして始まった両国の川開きは昭和36年(1961)まで続けられるものの、交通事情や川の水質悪化によって一時中断され、昭和53年(1978)になって隅田川花火大会と名前を改めて再開することとなり現在に至る。
江戸の風情を今に残すといわれる隅田川花火大会だが、由縁は死霊の慰撫や悪霊退散という火祭の意味があったのだ。
また、江戸時代にあって花火は、秋の季語とされていた。上記のような亡くなった人を慰めるために行われる花火は、旧暦の7月13~16日に行われた祖先の霊を迎えて供養する盂蘭盆会の景物として認識されていた。それが今日では納涼の楽しみとして、夏の風物詩として認識されるように変化してきたのである。
伝統的と呼ばれるものの、時代的変遷が分かる一事例といえるだろう。