(2014.07.20公開)
祇園会の季節で、暑い盛りでも京都には観光客が集まっている。四条界隈は夕方から歩行者天国で、車は通らない。とはいえ、夏の夕べのそぞろ歩きを楽しむというには程遠い。蒸し暑さもさることながら、前祭と後祭に分けたり、露店を制限したりという措置にもかかわらず、人の混雑が相変わらずだからである。一方通行をハンドマイクで連呼する警備員の声も露店の呼び込みの声も、押し寄せる人波にかき消える。
ごったがえす人の流れを攪乱するものもある。群衆の歩みに抗して立ち止まり、山鉾を撮影する老若男女である。それも携帯電話、スマートフォンから巨大なレンズを装着した一眼レフまで、さまざまである。なかには先端にデジカメを取り付けたステッキを振り回す者、どこかの映像プロダクションなのか、ステディカムを持って動画撮影する数名の男女もいて、混雑に拍車をかける。無数のレンズが四方八方を撮影している。
ところで、そんな話を持ち出したのは、宵山を暑苦しくしていると写真家たちを指弾するためではない。そもそも、こうした多くのカメラが撮影する多くの写真は一体何のためだろう?また何を写しているのだろうか?
勿論その中には商いや仕事で使うために撮影する人もいるだろう。またその中にはプロの写真家ではなくても、写真家予備軍や写真愛好家もいるだろう。そうした人々が撮影するのは、おそらく写真のため、あるいは言い換えると撮影行為によってもたらされるであろう画像を作品や商品にするため、というはっきりした目的があるだろう。
しかしまた、多くの撮影者が何のためにと問われたら、おそらく自分や家族や恋人や友人のためにと答えるだろう。あるいは自分たちの「記念」のため、「思い出」のためにということではないだろうか。
ごく例外的な場合を除いて、写真は作品制作を目指して撮影されるわけではない。それはほとんど言葉に近い。恰度言葉が詩人や小説家だけのものではなく、それを用いて日記も新聞記事もスーパーの広告もトイレの落書きも”Nature”に投稿する論文も書けるように、写真にもきわめて広汎な用途がある。そして、作品以外の写真のなかで、おそらく最も多く撮影されているのが、記念のため、思い出のための写真であろう。
芸術作品と似て非なるものが記念物である。記念品も、規模が小さいものを指すことが多いが、記念物の一種と言ってよいだろう。学校や職場の集合写真。宮参りや七五三の記念写真。入学式、卒業式、結婚式、銀婚式の写真。またそうした大きな節目以外にも、年間を通じたささやかな出来事や旅行の記念の写真。時機それぞれの写真は個人の歴史にとって欠くことのできない道標である。
これらは、しかし鑑賞されるための写真ではない。ひとつひとつ、重要な意味があっても、それは事後にためつすがめつ観察されるためのものではない。たしかに、あとから眺めるというのは大事だし、そのためにこそ撮影される。しかし、実のところは「眺めることができる」という状態が保持されていることが大事なのであって、蓄えた画像を後から繰り返し眺めなくてもよいのである。それらが眺められるとしても、その画像の細部の描写が問題なのではなく、それらがある時点でたしかに撮影されたことを確認することが重要なのである。言い換えるなら、ある瞬間の画像を残すのは、その時の光の痕跡を保管し観察するためというよりも、ある時点に自分が(あるいは皆で一緒に)撮影した、という記憶のよすがを残すためである。そこにいたという証拠を作る儀式が撮影行為である。手軽なだけに儚いが、それでも自分の手で世界を確認する力を与えてくれるのが写真である。
写真の持つこうした力は、ストレイト・フォトグラフィーという言い方でもまだ言い尽くせない。むしろ記念物的なものが持っている、ささやかな物的痕跡にも過剰に意味を担わせる集合的な経験の力である。たったひとりの撮影行為でも、それを外化して記念物にしてしまうのが、写真という媒体である。しかもそれは構図や光の効果といった美的な側面にも連なり、さまざまな細部へのこだわりや演出的な工夫をほどこされることもある。そうした「作品」としての物的執着も含めて、ある事実を我がものにしたい、それを持続的に記憶し、所有したいという欲求が起源にあることは否めない。写真は「とる」ものであり、構築したり作図したり、鑑賞するものではない。文字通り、過ぎ去ろうとする「いま」を所有するためのものである。
祇園祭で撮影される膨大な写真、またそれをはるかに上回る世界中で日々撮影され続ける無限の撮影画像。そのほとんどは、ひとつひとつが現実所有の欲求の産物である。写真を「とる」という行為は、あるいは美しい画像を作りたいのかもしれない。またあるいは特別な日の特別な場所の情景を記録したいのかもしれない。しかしむしろ、そうして残った画像以上に、流れゆく現実をとどめて自分のものにするというその瞬間の行為である。現実とはその場その時のものでしかない。写真撮影は束の間の行為であり、その捉える現実が一瞬の後には過ぎ去ってしまう以上、写真も次から次に撮影され続けなくてはならない。固定した二次元平面の画像の良し悪しではなく、継起し続ける時間の流れを間断なく追求し、把握する行為が写真撮影である。記念品を際限なくコレクションしてゆく行為と言ってもよい。スナップショットは、芸術活動とおおげさな名前を与える必要はないかもしれない。しかし、それでもやはり芸術活動がもともと持っていた意味、そして記念物が芸術作品になることで早々に失ってしまった意味を、今日の社会で最も多くの頻度で実現している活動かもしれない。