アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

空を描く 週変わりコラム、リレーコラム

TOP >>  空を描く
このページをシェア Twitter facebook
#185

〆切に際して想うこと
― 野村朋弘

〆切に際して想うこと

(2016.10.16公開)

先日、仕事とはまったく関係のない本を読んだ。左右社編『〆切本』である。近代から現代までの文士・作家といった書き手の〆切に関する文章をまとめたものだ。
そもそも〆切とは厄介なものだ。このコラムも〆切の1週間前にリマインダが届く。備忘通知とはよくいったもので、それはそれで有難いことだが、〆切と聞くと、何を書こうかと途方に暮れる。

教員をしていると常に〆切が重くのしかかる。学内の書類は言うに及ばず、コラム、報告書、論文、史料の翻刻などなどと相応に〆切がある。
「タイトル」、「アウトライン(あらすじ)」、「落ち(結論)」と冒頭の「出だし(はじめに)」。複数の文章に関して常日頃から思案しつつ生きているといってもよい。恐らく終生こんな感じなのだろう。
ただ、文士・作家よりも研究者は楽なのかも知れない。積み重ねた実験や調査といった証拠がベースになって論述することが主なのだから。文献史学を分野にする私にとっては、証拠となる史料を捲るのが第一で、博捜した史料から新たな知見を得て論文を執筆する。
無からは何も生まれない。この史料を捲り、また先行研究を読むため、インプットの時間が最も重要なのだ。

朝は子どもを保育園へと送り、準備をしてから大学へ行く。会議や授業、レポート採点と諸々の校務をこなしてから帰路に着く。帰ってからは食事をし、子ども達を風呂に入れ、寝かしつけの絵本を読み、そっと寝室を出て書斎に籠もろうとするものの、たいてい「眠れなーい。ダッコねんねー」とオプションが付いてくる。かわいさからついつい付き合い、夜は更けていく。
寝かしつけとは誠に残酷で、体温の高い子どもをダッコしているだけでこちらも眠くなってくる。そのまま寝てしまうと後の祭。誘惑に打ち勝てば、ようやく静寂な、まとまった時間が訪れる。珈琲を挽きながら香りを愉しみ、やる気スイッチを入れる。(入らない場合も多々ある)
但し、やる気スイッチが入っていても、文章を書く前段であるインプットが必要になる。先に記した史料捲りである。これが何より至福の時だ。学生の頃から捲っている史料でも、何かしらの「気づき」がある。インプットだけで明暁が訪れるということも多い。

漸く、史料に基づき、大凡のアウトラインができあがると、次に考えなければならないのは、「出だし」。つまりは書き出しをどうするかだ。論文でもコラムでも、何から書き始めるか、どういう話から始めようかというのは、思案のしどころといってもよい。
特に「出だし」などの思いつきとは不思議なもので、執筆とはまったく関係がない時に限って、メモ帳などがないときに限って、「降りて」来る。保育園へ向かうため、自転車をこいでいる時がこのところは多い。忘れないように、と思っていても子どもの愉しい会話でついつい彼方へ飛んでしまうこともあるが、帰宅してから記憶を引き戻す。

これでようやく執筆となる。
しかし、生得の怠惰な性格のためか、自分が集中して執筆すると原稿用紙何枚程度が書けるかをこれまでの仕事の中で把握しているので、ついつい時間を逆算してしまう。少しでも余裕があると気づけば、やる気スイッチはすぐにオフになる。大泉洋さんの格言よろしく「明日できることは今日やらない」である。
「日付が変わってからやれば間に合う」とか、「3時からやれば出勤までには間に合う」などという打算は、まさに悪習だろう。書き始めてからは徃々にして苦しみつつ、「何故、もっと早く手を着けなかったのだろうか」、「次こそ早くやろう」と思うことが常だ。しかし喉元過ぎれば、である。特に原稿書きに関して、この恥ずべき習慣は脱しえていない。

様々な〆切が容赦なく迫りくる。あれはどうしようか。今回はネタを何にしようか。と思った逃避行動が『〆切本』を読むことだった。不義理を重ねている幾つか原稿依頼が頭を翳めつつ読んでいくと、得心する話が多い。内田百閒のものなどは秀逸だった。
そして、過去の文士・作家たちが、いまの世を生きていたとして、SNSなどが使えたらさぞ面白いだろうなぁと妄想を膨らます。おそらく〆切を前に逃避行動で洒脱な呟きをしてくれることだろう。
しかし昨今は、Twitterでつぶやくのを担当編集さんが看ている、ということも多々ある。情報網が整備されるというのも善し悪しだ。

ついつい〆切に追われて、〆切を前にしてどういう時間を消化しているのかを顧みて言語化した次第である。
こうして画面上になんとか文字を埋めてデータを渡したあと、得てして「なんたる駄文か」と忸怩たる思いに襲われる。
とはいえ〆切を前にして、書き連ねるしかないのだった。
・・・と、熟々と書きながら、これは〆切日、〆切時間という、時間に対する意味付けを考えているのではないかと、思い至った。〆切を考えることは、ある種の時間のデザインではないか。

教員のみならず、学生諸氏も〆切に追われる。レポートや単位修得試験と、〆切は無情にもやってくる。大学とは常に何かしらの〆切と相対する場所である。〆切と向き合って、どのようにやる気スイッチを入れるか。一人ひとりの作法があるだろう。自省を込めつつアウトプットしてみるのも一興だろう。
そして〆切に際して、逃避行動に『〆切本』はうってつけの一冊だった。私の今回の駄文を読んで下さった諸兄諸姉にもオススメである。