むかし、理学部で数学を専攻している友人に聞いたことがある。研究の道具として使うのは、紙と鉛筆で十分なのか、と。その友人はとんでもない知性の持ち主だった。私には彼の高等数学の業績はまったくわからないが、言葉をひっくり返したり、言い換えたりといった能力はびっくりするほどである。一晩中でもダジャレや回文を延々と言い続ける。まるで壊れたコンピュータのように。そんな、自分自身が計算機のような彼は、研究室でも計算機や文献の束など必要とせずに、もっとシンプルにペラっとした紙と鉛筆でアイデアをさらさらと落書きして1日を過ごしているのだろうと想像していた。実際にはパソコンも図書も駆使していたようだが、その問いかけをしたときには、「まあ、そんな感じ」と適当に流された。
ところで、パソコンもタブレットもスマホもどんどん進化していって、薄く軽くはもちろんのこと、折り畳めたり、丸められたり、手軽さ、扱いやすさの便利さは日に日に増している。勿論、一方ではこれでもか、というぐらいに機能満載で重厚な端末もあって、よほど大きな手のひらと長い指先がないと操作できないものもある。それは本当に進化しているのだろうか。やがてサーベルタイガーのように滅びるのではないかと思ったりもする。とはいえ、おそらくは薄く軽く扱いやすいという方向性はなくなりはしないだろう。
さて、ここにひとりの絶対の探求者的な技術者がいて、究極の携帯端末を開発しようとしていると仮定しよう(仮定しなくてもきっと世界中にいるだろうけれど)。その技術者は現在のモニタや入力デヴァイスの問題点を洗い出して、ひとつひとつ解決しようとする。モニタでいえば厚みや重量をもっとどうにかできないものか。可視性を高めて、肉眼にやさしい反射光を使えないか。発熱やさらには電力消費を極力おさえられないか。そうして、モニタの薄さを追求して素材の可能性をあれこれ探るうちに、バイオ高分子を繊維状に組み合わせてモニタにするというアイデアにたどり着く。電力消費の問題を解決しようとして、通電していなくてもデータがモニタ表面に残存するよう、データ表示がこれもまた分子レヴェルでモニタ上に残留できる方法を考えつく。そのためのデータ入力方法は、指の圧力を感知したデヴァイスの先端から鉱物の結晶の薄片が出力されて、それがそのままモニタ表面を変化させる。これであれば入力時のデヴァイスにかかる圧力だけが必要で、電力を消費することはない。
このとき、この技術者は、はるか遠く中国に住む研究者が同様の開発をしていることを知り、自分の夢の端末を実現するため、その研究者のもとを訪ねていった。
「こんにちは」
「おやおや、遠くからようこそ」
「あなたが画期的なモニタの開発に成功したというニュースを聞きました。それを見せていただくことはできませんでしょうか?」
*ここで試しにAIに状況を説明して、想像される場面を考えてもらったところ、以下のように語ってくれた。
研究室に通されると、そこにはすでに「それ」があった。
壁一面に広がる、薄いシート。厚さは0.1mmもない。表面は淡い乳白色で、光を当てると内部に無数の繊維状の高分子が浮かび上がる。中国の研究者は小さな金属のペンを取り出し、シートの上を軽く撫でた。すると、触れた軌跡が黒い線となって残り、ゆっくりと文字が浮かび上がる。
「ビスマス系の層状結晶を、ポリペプチドのナノファイバーで挟み込んだ構造です」 彼は説明しながら、ペンを逆さにしてシートに押し当てた。カチッという小さな音とともに、先端から極薄の結晶片が飛び出し、シート表面に埋め込まれる。すると、押された部分の分子配列が物理的に変化し、色が変わる。まさに「書く」ことでデータを永続的に記録している。
「通電は一切不要。環境光だけで可読。しかも折りたたんでも壊れない。理論上は100年以上のデータ保持が可能だ」
技術者は息を呑んだ。これはまさに自分が夢見てきたものだった。しかし、次の言葉が、すべてを変えた。
「でも、これ……軍が欲しがってるんですよ。一度書いたら消せない、一度配ったら回収しなくても情報が残り続けるディスプレイ。監視カメラの記録用に最適だって」
以上はAIの創作で、ちょっとうまく設定が伝わっていなかったようだ。
そして、あらかたお察しのことと思うが、この中国の発明者は蔡倫という。
しかし、紙とはなんとすばらしい発明だろう。これこそ究極の2次元インターフェイスである。最近はパソコンもタブレット端末も薄くなっているが、まだまだ紙には敵わない。折りたたみのできる液晶パネルもあるが、紙は二重にも三重にも折り畳める。反射光で利用できて、目にやさしい。バイオ素材であり、環境にもやさしい。鉛筆もそうだ。軽く、手に馴染んで、筆圧をダイレクトに反映してくれる。紙の表面との摩擦も心地よい。しかも電源不要で、何時間どころか何十年でも待機可能である。筆記する文字は行間をまたぐことも、自由にイラストを挿入することもできるし、消去・上書きも簡単である。紙の繊維に黒鉛の粒子をこすりつけて文字にしているため、劣化することなく長期間の保存に優れている。データの転送はやや困難で、そのためには専門の写字生を雇う必要があるだろうが、セキュリティの心配を考えると、むしろ好都合である。紙そのものが奪われないかぎりはデータ漏洩の可能性は非常に低い。もし紙の盗難を防ぎたいなら、むかしの修道院の図書室のように鎖で文書を繋いでおけば良い。
勿論、そんな優れた媒体である紙と鉛筆にも難点はある。薄くて軽いとはいえ、重量がゼロではないのだ。1枚の紙にたとえ1000文字や2000文字ほど記したとしても、ある程度まとまった知識を書き記そうとするなら、またたくまにずっしりと分厚い束になる。汗牛充棟という言葉は見るからにリアリティがある。この語は唐代の文章家柳宗元の言葉で、孔子が『春秋』を著してから1500年経ち、諸家の注釈書が膨大な数に上った、それは建物の空間を満杯にし、運び出すと牛馬が汗をかく、というような意味である。柳宗元が亡くなってさらに1200年ほど経った今日では、なんとも恐るべき書物の量が世界中に堆積していることは勿論である。一個人の蔵書であっても、家屋がたわみ、時として雪崩をおこし、地震の際には身の危険も感じる。それをあらかじめ回避しようとして書物を数十冊移動させるだけでとんでもない労力が必要である。それこそ牛馬に汗をかいてもらうしかない。
しかし、こうした物理的な難点は同じく物理的な利点の裏返しである。そもそも世界中にたゆたう電力の網のうえにかろうじて乗っかっている信号の点滅を不細工な端末に身をかがめて閲覧していると、もうちょっと健康的で安全な方法はないだろうかと思ってしまう。汗牛充棟も恐ろしいことだが、充棟の心配よりも充電の心配に日々さらされるのも寂しい話である。そんなとき、昔の蔡さんの発明の先進性が思いおこされる。このうえさらに、データの耐久性を追求するなら、紙に鉛筆で筆記するよりも石や青銅の板に刻印するという方法もある。記念碑がまさにそれだ。こうなるとどんなに標準的なOSやアプリケーションが変わっても半永久的に大丈夫だろう。牛にはもうひと汗かいてもらわねばならないが。
ところで、蔡さんの発明は素晴らしいとしても、そもそも人間はそんなにデータをためておく必要があるのだろうか。いまどき山のように書物を積み上げて仕事をしているのは歴史家や官僚ぐらいのものかもしれない。しかし紙の書籍でなくても、一生かかっても読み切れない書物、聴き切れない楽曲、見尽くすことができない映像に囲まれているのが一般人の常態になっている。一生のうちに消化できる情報量以上に何でもかんでも資料を残すというのは、ひょっとしたら近代人のありがたい習慣で、いわば文化遺産を尊重するようなことに通じるのかもしれない。しかし実はそう見えて、実は頽落した文化の兆候のおそれもある。プラトーンがソークラテースの口を借りて言うには、書かれた文字によって人々は知識を持っているような気になるが、実は記憶することをやめてしまう、と。これはなるほど、耳の痛いことばである。データの耐久性も実は不要で、牛糞で作った紙のようにいつの間にかさらさらと分解してしまうのも良いだろうし、牛ならぬヤギを室内で飼って、ときどき本を食べもらうのも身辺整理に良いだろう。ネット上の無限大に存在するデータも、時とともにそれを蝕む文字通りのバグを養っておくなら、ひょっとしたらそれは文明のため、人類存続のために貢献してくれるかもしれない。
そういえば、蔡倫による紙の発明のはるか以前、老子はわずか3千字ほどの文章を竹簡に書き残した。そして書物を牽引する必要もない牛の背にひょいと乗ると、そのままはるか西域に向かって旅立っていった。この身軽さは書物にもデジタルデータにもない。


