アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

手のひらのデザイン 身近なモノのかたち、つくりかた、使いかたを考える。

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#38

プラスチックの黄色いバケツ
― 佐々木愛

(2016.02.05公開)

もうずいぶん長い間、筆を洗う時はプラスチックの黄色のバケツを使っていた。
まだ幼稚園に入る前に母が私に買ってくれたものだ。色によって洗い分けられるようにバケツは6つの花形に仕切られていて、持ち手は机に置いた時に筆立てになるようになっている。側面には油性のマジックで、ひらがなで私の名前が書かれていた。
私はとにかく絵を描くことが好きな子供で、物心ついた時から熱心に日々お絵描きに勤しんでいたらしい。何をそんなに熱心に描いていたのか思い出せないけれど、朝起きたらご飯よりも真っ先に紙に向かっていたようだ。
動物園も遊園地も私の反応が薄く、お絵描きばっかりしていたので、そのうち両親も私を無理にどこかへ連れて行くことを諦めた。だから大人になるまで海も山もお買い物にもあまり行った記憶がない。

私があんまり絵ばっかり描いているので、両親は私が幼稚園に入るちょっと前に近所の画家の人が運営しているお絵描き教室に入れてくれた。そして、教室に通うために、筆と水彩絵の具と筆を洗うためのバケツとサクラ型のパレットを買ってくれて、どの道具にもひらがなで母が“ささきあい”と名前を書いてくれた。
週に一度の教室は、何も決まりごとがない、とても自由な雰囲気で、教室に来てお昼寝して帰ってもよかったし、寝転んでお菓子を食べていてもよかった。これには教育熱心な子供の親が時々先生に怒って乗り込んできたこともあった(お金を払って子供を教室に通わせても成果品が1作もできない苛立ちだったと思われる)。
先生が課題をくれる時もあれば好きに描いていい時もあった。音楽や朗読を聞いて絵を描いたり、粘土遊びをしたり、外に写生しに行ったりした。たくさんの子供がいて、一緒におやつを食べたり、隣り合ってうつ伏せになって描いたりしたけれど、なぜかどの子の名前も知らなかったし、おしゃべりした記憶はあまりない。
その教室では、夏休みには毎年、先生と子供達で森の中や山の麓のユースホステルに泊まって、一日中好きな場所で描くスケッチ旅行を行っていた。
外で描く時は机がないので、画板の一辺に紐をつけて首にかけ、台のようにし、紙の四方をクリップで板に止め、片方の手で画面が揺れないようにしっかりと板を持って、立ったまま、または岩や切り株に腰掛けて描く。
外に出ると、部屋の中で描く時より、いろいろなことにちょっとだけ慎重になるのかもしれない。風に煽られて手が揺れないようにしっかりと筆を持つし、何度も洗えないので小さなパレットに慎重に色を選んで混ぜる。水を汲みに行くのを最小限にするために、注意深く色や汚れ具合によって6つに仕切られたバケツの水を使い分けた。そうやって作業の手順や道具の使い方に、ちょっとした自分なりのルールみたいなものが出来てきて楽しくなった。
ふらふらとどこかに出かけて行って制作することがとても好きなのは、子供の時のこの経験からかもしれない。

小学校4年生の時に夏休みの宿題で、近所の公園の風景を数週間かけて描いたことがある。とても暑い8月で、帽子をかぶって、絵の具とバケツと水筒を両手いっぱいに持って、毎日公園に通った。
制作していると、今でもふとこの夏休みのことを思い出す時がある。
汗が紙にぽたぽたと落ちたこと、画板を持つ手が痛くなったこと、水を替えにバケツを握りしめて何度も家を往復したこと、木々や池の様子が日々変化して、描いても描いても追いつかなくて焦ったそのざわざわした気持ち。

作家になって、あちこちに出張して作品を作るようになって、使う絵の具や筆が変わっても、バケツはずっと名前の入った黄色いバケツだった。滞在先のほとんどすべての場所に持って行ったように思う。赤道も越えた。
何度か汚れがひどくて漂白したから、母が書いてくれた名前は所々剥げて読めなくなっていた。そしていつからか、プラスチックの底が割れて水が漏れるようになった。いよいよ使えなくなってすぐに新しい黄色いバケツを買ったけど、すぐにどこかで失くしてしまった。
特に思い入れや、こだわりがあるわけでもないと思っていたし、大事に使っていなかったように思う。でも当たり前のように黄色のバケツをどこにでも持って行って、なんとなくずっとそばにあった。
暑い夏の日に、早く絵を描きたくて小走りに道をかけた時の気持ちは、あの黄色のバケツの取手をぎゅっと握りしめた手の感覚と共に今も残っている。

黄色のバケツ

佐々木愛(ささき・あい)
1976 年大阪府生まれ。物語や神話など「記憶」から呼び起こされるような世界と、現実の世界の交わる情景を身近な素材を使用したインスタレーションやペインティングを制作発表している。その中でも砂糖によるインスタレーション作品を積極的に制作発表している旅先の風景を元に、古い文様や物語からイメージした作品は、限定された期間のみ展示され、やがては取り壊され、鑑賞者の記憶にのみ残されます。近年、青森、韓国、ニュージーランド等のアーティストインレジデンスに積極的に参加。2010年ポーラ美術振興財団 在外研修生としてオーストラリアに滞在。主な個展に「Four Songs」ベルナールビュフェ美術館、静岡(2014年)、「Landscape Stories」T.O.D.A、栃木(2013年)、主なグループ展に「森からはじまる物語-森へのイメージをめぐる3つのまなざし-」金津創作の森、あわら市(2015年)、水戸芸術館開館25周年記念事業 「カフェ・イン・水戸 R」水戸芸術館現代美術センター、茨城(2015年)、モエレ沼公園グランドオープン10周年記念展「Imaginary Landscapes 01 想像の山脈」モエレ沼公園、北海道(2015年)ほか多数。
http://www.sasakiai.com