アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

手のひらのデザイン 身近なモノのかたち、つくりかた、使いかたを考える。

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#46

珈琲とレタープレス
― 山口奈帆子

(2016.10.05公開)

都電の線路を渡ると、鬼子母神へ続く大きな欅の並木道が見えてくる。
風が木々の間を吹き抜け、遠くで欅の葉が揺れる音がする。
木もれ日が美しい静かな午後、印刷所に向かうこの道を何度も歩いた。

私が十数年勤めていたギャラリーを辞めて、NAHOKO PRESSという名前のリトルプレス(小さな出版)を始めたのは、つい数年前のことである。
一冊目の出版物は、大坊珈琲店の大坊勝次さんの文章を英訳した『A Daibo Coffee Manual』(原題「大坊珈琲店のマニュアル」)という本である。昔ながらの活版印刷機で一文字ずつ手作業で活字を組んでくれる印刷所を日本中探した。最終的に印刷をお願いした印刷所は、一つ一つの工程を担当する職人さんが熟練した技術と豊富な経験を持っていて、その刷り上がりの美しさは群を抜いていた。
印刷所の地下にある大きな活版印刷機は、西ドイツのハイデルベルグ社のもので、スイッチを入れると蒸気機関車のような音を立てて勢いよく回転する。印刷機の周りには、すぐ手の届く場所にあらゆる道具が置いてあった。長年使われてきた道具たちはどれも真っ黒で鈍い光を放っている。よく手入れされていてインクのにおいがする。
ある日の出来事である。印刷機を止めて職人さんが手を伸ばすと、そこに一本の古い金槌があった。レタープレスの工程は気の遠くなる作業の連続だが、浮いている活字を金鎚で一つずつ同じ高さに揃えていく作業は特に印象深い。印刷機にきれいに組んだ活字をセットした後、金槌でそっと叩く。それを何度もくり返す。
組んだ活字が浮いていると、刷り上がったときにその部分だけ目立ってしまう。また、活字の角が汚れのように印刷されてしまうこともある。そういう細かい問題を入念に確認しながら試し刷りをしていく。
職人さんは目で確認するのではなく、指先の感覚と直感で微調整をしていく。
あの金槌はそんな職人仕事を象徴している。

「百人いれば百通りのコーヒーがあり、百人いれば百通りの飲み方があるのがコーヒーの良さだと思います。」という一文が「大坊珈琲店のマニュアル」にある。
大坊珈琲店の珈琲は一杯ずつ注文を受けてから、自家焙煎の豆を挽き、ネルドリップで一滴一滴ゆっくりと淹れていく。その作り方について丁寧に記した大坊勝次さんの文章にも様々な道具が登場する。例えば、珈琲豆をガスの火で焙煎する手廻しのロースター、注ぎ口を金槌で叩いて細くしたお湯を注ぐポットなど。
珈琲の世界もレタープレスも同じであった。
珈琲豆の一粒、一粒。そして活字の一つ、一つ。焙煎の煙で大坊珈琲店はダークブラウンの珈琲のような色をしていて、店そのものがカップに注がれる珈琲と一体となっているかのようであった。それはインクのにおいが立ち込める印刷所とどことなく似ているところがあり、そこで使われている道具の佇まいも互いに通じるものがあった。訪れるたびにその場所に宿る何かに心が奮い立つ。そんな場所であった。

珈琲とレタープレス。
どちらも奥が深い。一冊の本を通して伝えきれないこともたくさんある。
それでも時間をかけて誰かの心に深く届けたいことがある。
NAHOKO PRESSの「PRESS」という言葉は、禅語の「心印」に由来している。
言葉や概念にとらわれず心から心へ伝える。
そして、人の心に大切な何かを刻むような仕事をこれからも大切にしていきたいと思う。

協力:株式会社豊文社印刷所
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山口奈帆子(やまぐち・なほこ)

学習院大学文学部哲学科美学美術史コースを専攻、美術史とキュラトリアル・スタディを学ぶ。2000年の冬から2013年の春までTaka Ishii Galleryにディレクターとして勤務。若手アーティストの育成、展覧会の企画、国内外の美術館や出版のプロジェクトなどを担当した。2014年にNAHOKO PRESSを設立。