アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

手のひらのデザイン 身近なモノのかたち、つくりかた、使いかたを考える。

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#29

銅鍋と木べら
― 鈴木潤

(2015.04.05公開)

趣味は何かとたずねられたら出来ることなら「台所」と答えたい。
食べることが好きで、料理本を眺めることも、誰かにレシピをたずねメモを取ることも好き。料理に関する文章を読むのも好きだし、どこかに旅行に行ったら必ず町の金物屋さんや荒物屋さんを覗いて、台所で活躍しそうな品々をあれこれ眺めるのもやめられない。
台所はいろんな道具で溢れている。穴が空いているザルや形の歪んだ雪平、真ん中がへこむように削られたまな板に先の焦げた菜箸。他人から見たらどうして新しいのに買い替えないのかというものも、持ち主にとっては長年連れ添ったもの同士の持つ安心感と絶妙な使い心地があるに違いない。長く使われている道具というのは佇まいそのものが美しいもので、「これでなくちゃ」という説得力に満ちている。
お店に食事にいったら、出来るだけ厨房の見えるところに座って、お店の人が働く姿を眺めたいし、どんな道具を使っているのかとても気になる。許されるならいろんな家の台所を隅から隅までじろじろと眺めてあれこれ尋ねたい。
こんな具合に台所や料理にまつわること全てにとても心を奪われるのだ。
20年くらい前、ベトナムの友人の家を訪ねたことがある、決して裕福な暮らしでないのは家に通されてすぐに察しがついた。一間の住まいには衣食住すべてが詰まっているという風だった。その部屋のすみに小さなコンロと数個のお鍋、そしてお皿が置いてあるスペースがあった、あまりにも質素でそこが台所だと気が付くまでにすこし時間がかかったほどだ。
しばらくすると友人のお母さんが小さなコンロの前にしゃがんでお昼をこしらえてくれた。新鮮な青物野菜にヌクマムをからめただけのシンプルなおかずはご飯にとても合い、遠い異国の地でお昼ご飯を食べる喜びがお腹の底からふくふくと湧き上がってきた。ご飯のおいしさはもちろんだけれど、何よりその小さな台所が忘れられない。火さえあればどこででも料理は生まれるということを改めて突きつけられたような気持ちがした。
京都に越してきて初めて今の家の台所を見た時、小さくて暗く、窓もないし決して満足とは言えなかった。不動産屋さんに「この場所でなかなかこんな町家は出ないですよ」と言われても悩んでる私に「台所くらいで決めないのはもったいない」とあきれられたりした。でも私にとっての台所は家の中で一番大切な場所なのだ。結婚して家族が増えた今はなおさらである。結局あちこちみて回る時間もなく、今の家に決めたのだが、初め気に入らなかった空間も自分の長年使い慣れた道具を並べていくといつの間にかしっくりとしてきて、どんどん自分の居場所になっていった。そう、まるで巣をつくる親鳥のような気分だったのだ。
一番古い道具は母から譲ってもらった木べら。使い過ぎでその形はもとのそれよりずっと削られて斜めになっている。
一番新しい道具はご飯を炊くための銅のお鍋。子どもたちが大きくなるにつれ2合炊きの土鍋では間に合わなくなり、思い切って新調したものだ。
どちらも手にとらない日はないし、私の、私たち家族の日々を支えてくれている頼もしい存在なのだ。私は道具一つ一つが活躍している台所ほど楽しい場所はないと思っている。

へら

鍋

撮影:鈴木潤

鈴木潤(すずきじゅん)
メリーゴーランド京都店長。1972年三重県四日市生まれ。四日市のメリーゴーランドで13年企画を担当。 国内外の作家や子どもの施設を訪ねるツアーや、子どもキャンプなど多く手掛ける。2007年京都店の出店と共に京都に移住。店長を務める。雑誌、ラジオ、TVなどでの絵本の紹介、子育てのエッセイ執筆、講演会など多方面で活躍。少林寺拳法弐段。
ブログ http://milkjapon.com/blog/suzuki/