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アネモメトリ -風の手帖-

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#26

誰もが主役になれる“バイキング方式”ボランティアをサポート
― 小笠原忍

(2015.01.05公開)

 釧路市こども遊学館でボランティアコーディネートを担当する小笠原忍さん。230人ものボランティアスタッフを束ねながら、大人と子どもがフラットにコミュニケーションをとれる場所づくりを目指し、10年のキャリアを積み重ねてきた。知床、札幌、京都、そして釧路とライフステージの変化とともに暮らす場所を変えながら、ひととの関わり合い方を模索し続けた彼女が生み出した、新しいボランティアのありかたとは、どのようなものなのだろうか。

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自然光が差し込み、明るく開放的な雰囲気の釧路市こども遊学館

——ご出身が世界自然遺産で知られる知床の斜里町だそうですが、中学卒業後は遠く離れた札幌の高校に入学されています。これはどういった理由からだったのでしょうか。

中学生のときに札幌の北海道立近代美術館で展覧会を観る機会がありまして、その時に初めて学芸員という仕事があることを知ったんです。絵を描いたり、作品をつくったりすること以外に、美術を伝える、という仕事があるんだということを知ってとても衝撃を受けまして。それまで漠然と人に何かを伝える仕事がしたいという思いはあったんですが、学芸員の仕事の存在を知って、もうこれだ!と思いました。とにかく美術館通いがしたかったので、親に無理を言って近代美術館の近くにある高校を受験させてもらい、入学しました。

——高校からは親元を離れ、寮生活をされたということですね。割と早い段階で学芸員になりたいという夢を持たれ、行動に移された意志の強さに驚きます。札幌での高校時代、美術に関して何か影響を受けたことはありますか?

担任の先生が、今では世界的に活躍されている人形劇作家の沢則行さんだったんです。ちょうどチェコに移住する前に札幌で教員をされていた頃でして。沢先生が実際に人形劇をつくっている現場を見せてもらったこともあり、美術の道に進みたい、という気持ちはより大きくなりましたね。また美術部に所属して絵を描いたり、立体作品をつくったりしていました。3年間、美術に触れるにはとてもいい環境にいましたね。
*1961年北海道生まれ。チェコ在住の人形劇師。92年に文化庁在外研修生としてチェコへ渡り、以後世界20カ国以上で人形劇を公演。国際人形劇連盟会員。

——卒業後は京都造形芸術大学の芸術学コースに進まれましたが、北海道から京都へ行こうと思われたのはどのような理由からでしょうか。また、大学ではどんなことを学ばれましたか。

北海道は新しい土地なのですが、18年間自分が当たり前だと感じてきたことがそうではないんだということを一度出ることで、体感したかったんですね。北海道からは東京方面に進学する人がわりと多いんですが、関西の方がいろんな土地から来た人と関われるんじゃないかとも思いまして。実際に暮らしてみると、驚くことは多々ありました。瓦屋根ですら北海道では見慣れないものだったので、屋根にまずカルチャーショックを受けましたね(笑)。あとは京都の家と家が密集した街並みや言葉にも慣れるのに時間がかかりました。
大学では、おもにアートマネジメントに興味をもって勉強していました。やはり学芸員になる、ということが念頭にあったので、美術をどう人に伝えるか、また美術を通してどう人と関われるか、ということを中心に研究しました。在学中は関西のいろんな美術館を回りましたね。

——その後、生まれ故郷の知床・斜里町に戻り「北のアルプ美術館」に学芸員として入られていますね。

「北のアルプ美術館」は『アルプ』という1958年に発行されていた山に関する文芸誌に寄稿された小説やエッセイの原稿や、イラストなどを展示する小さな美術館でして、実はわたしの父が私財を投じて創設したものなんです。1983年に終刊しても全国に根強い『アルプ』ファンは多かったので、『アルプ』にまつわる資料を目にできる場所をつくりまして。自分が今まで学び、経験してきたことを活かせる場所ではないかと思い、故郷に帰って勤務することにしました。

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洋館のような佇まいの「北のアルプ美術館」。昨年で開館22年を迎えた

——お父様が美術や文学に造詣が深かったことも小笠原さんに影響を及ぼしているのでしょうね。こちらでは学芸員としての仕事と並行して、町立図書館のボランティア事務局長や図書館協議会委員をされていたそうですがこれはどういった経緯だったのでしょうか。

斜里町は若いひとが少なかったので重宝されまして(笑)、図書館の方から声をかけてくださったんです。わたしは「北のアルプ美術館」のボランティアグループの代表をしていたのですが、町内で活動している読み聞かせサークルや朗読の会など、さまざまなボランティア団体も一同にとりまとめることになりまして。具体的には広報用のお便りをつくったり、年に1回ある「図書館まつり」の実施など、図書館に人が集うための活動をしていました。この仕事を機に、年代も分野もまったく違う人とコミュニケーションをとらなければいけない状況になったんです。以前はそういったことに苦手意識があったのですが、やってみると面白さを感じるようになりました。

——どういったところにボランティア活動の面白さを感じましたか?

やはりダイレクトにひとの顔が見える、というのが一番の面白さでしたね。以前はアートというすごく専門的な世界にいて、関わる人も同年代や、アートに関連したひとが多く、わりと閉じた世界にいたと思うんですが、そこから出たところで新たにいろんな年代、バックグラウンドの人たちと出会い、皆で企画して何かをつくり出す、ということがとても刺激的で新鮮に感じました。

——美術館の学芸員と図書館のボランティア事務局長の仕事を並行されていたことは、とてもよいバランスだったのではないでしょうか。

そうですね。今までできなかった広いコミュニケーションの取り方をボランティア活動を通じて学ぶことができましたし、自分の自信にもつながりました。たくさんの地元の人に支えてもらい4年間ですごく成長できた、という感覚はありましたね。

——ご結婚を機に美術館を辞めて釧路の方に移住され、2004年から釧路市こども遊学館(以下遊学館)に開館準備の段階から入られたとのこと。以前とは違い、科学の分野を扱う場所、しかもボランティア担当としてのお仕事ですが、ご自分のなかでどのようなモチベーションがあったのでしょうか。

はじめからボランティアの専門職、というかたちでの採用だったんですが、ミュージアムで人に何かを伝えるということは一貫してやりたいことでしたし、斜里町でたくさんの人と関わったボランティア活動の経験が活かせるのではないかと思い、自分のなかではピンとくるものがあり、応募しました。

——なるほど。今までのご経験が集約したかたちでできる仕事に出会われたのですね。開館準備室からのスタートでしたが、まずどのようなことからボランティア業務を始められたのでしょうか。

当初、ボランティアをどのように受け入れて運営していくかは具体的に決まっていない状態だったので、まず基本方針やシステムをゼロから構築するというところから任されました。
釧路市に引っ越してから現在の仕事に就くまでは4年間のブランクがあったのですが、そのあいだ、釧路の人の気質をだいたい把握できていたので、釧路の人にとって参加しやすいボランティアのあり方を模索しました。

——釧路の人らしさ、土地柄、というのはどのようなものなのですか?

引っ越してきてまず真面目で義理堅いというのをすごく感じました。それゆえに釧路の地域性を考えると、リーダーがトップにいるようなタテ形のボランティアシステムだとそれぞれが責任を感じやすくなり、せっかくの楽しいボランティアが義務に変わってしまうのではないかと思いました。わたしは皆さんが公平に楽しめる場にしたかったので、ボランティアスタッフのなかにリーダーは置かないことにし、わたしたち担当者が連絡調整をして横をつなげていくというかたちにしました。

——その土地の人の気質からシステムを構築するというのはとても面白いやり方ですね。

それまで東京の大きな美術館や博物館でどのようにボランティアスタッフを受け入れているかを見学させてもらったこともあったんですが、やはり人口の多い場所でのボランティアシステムをそのまま釧路に適用はできないと思ったんです。責任感が強く、自己アピールが苦手な釧路のひとが入りやすいようなボランティアのかたちを一からつくることが何よりも大切だと考えました。役割や責任を全うしなくてもいいシステムといいますか。わたしは遊学館のボランティアシステムを“バイキング方式”と呼んでいるんですが、ボランティアスタッフが今日は読み聞かせと工作をやりたいと思ったらそのどちらも、もしくは読み聞かせだけをやりたいと思ったらそればっかりでも構わない、いわば一つのトレイに好きなだけやりたいことを集めて自主的に楽しむ、というようなボランティアのかたちをとっています。自主申告制で、自由参加型ですね。自分の都合に合わせていろんなジャンルの活動を自由に選ぶことができます。他の館の方からは「大変ですね」と言われることも多いんですが、あまり困ったことがなく、うまくまわっている状態です。

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ボランティアスタッフの年齢層は10代から70代までと幅広い。子どもたちと近い距離でコミュニケーションをとりながら活動している

——そのやり方だったらストレスなく、長く続けられそうですね。

そうですね。自由度が高いので、無理なくマイペースに活動できるところが皆さんのモチベーションにつながっているのだと思います。わたしはボランティアを単なる無償の労働力だと思っていないんです。基本的には遊学館のスタッフの手がまわらなくてできないことをボランティアにやってもらう、という考えではなく、プラスアルファの力になってもらうことだと思っていまして。ボランティアスタッフの経験や知恵によるサポートがあることで子どもたちの理解力がアップしたり、工作がうまくできたり。そういった力をいただいていると思っています。
当初からボランティアスタッフがいないと成り立たないような事業計画は立てていないんです。何しろ、義理堅い釧路の人たちですから人手が足りずに困っているような状態だと「わたしが毎日行かなくちゃ」と思いかねないですからね(笑)。

——確かにそうですね。実際にボランティアスタッフの方と関わった子どもたちの反応はいかがですか。

ボランティアスタッフに会うのを楽しみにして来る子どもたちもいて、家族みたいな感覚があるようです。小さい頃から通ってきた子がどんどん成長していく様子をボランティアスタッフが見守っているようなところもありまして、地域の大人が子どもたちを育てている、という感じですね。科学を始めとした教育普及だけでなく、多くの市民が集えるような場になるということも遊学館の大きな理念のひとつだったので、そういう意味では10年経った今、毎年10万人の入館者を維持していることもあり、たくさんの人に愛される施設になってきているかな、と思います。

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体験型の展示物や遊具が常設され、子どもだけでなく大人も楽しめる

——小笠原さんも館とともに10年という年月を経てこられましたが、今後新たにやってみたいこと、または望んでいることは何かありますか。

わたしは遊学館が開館した年にひとり目の子どもを出産し、2年後にもうひとりを産んでいて子育てをしながら仕事をしてきました。なのでお母さんの気持ちもよくわかるんですね。今までは子どもに対しての事業を積極的に展開してきたんですが、これからは親子で体験できる事業をはじめ、お母さん、お父さんが育児から離れて心をときほぐせるような事業を展開したいと思っています。今も託児付きのクラフト教室はやっていますが、非常にニーズが高いので、回数を増やしたいですね。また、お父さんが家ではなかなか没頭できないプラモデルづくりや電子工作ができる時間が持てる場をつくりたいとも思っています。
釧路は日本の端っこにあって、ものや情報がたくさんあるわけではないのですが、その分ひととひととがちゃんとつながって生きていけるような場所づくりをこれからもサポートしていきたいと思っています。

インタビュー・文 杉森有記
2014.12.4 電話にて取材

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小笠原忍(おがさわら・しのぶ)
1974年北海道斜里郡斜里町生まれ。京都造形芸術大学芸術学部芸術学コース卒業。北のアルプ美術館学芸員を経て、2004年より釧路市こども遊学館開設準備室にボランティア担当職員として勤務。2005年の開館から現在に至るまで、ボランティアコーディネート業務をおもに担当するほか、イベント企画や各種事業の実施などを手がける。

杉森有記(すぎもり・ゆき)
1979年福井県生まれ。同志社大学文学部美学及び芸術学専攻卒業。美術館学芸員、雑誌編集者を経て、アートやローカルカルチャーに関するライターとして活動を行う。