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アネモメトリ -風の手帖-

風信帖 各地の出来事から出版レビュー

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#38

開運橋~二度泣き橋~
― 岩手県盛岡市

岩手県を鉄道で北上すると、盛岡駅手前で大きな川原を渡ります。雫石川が北上川と合流するところです。北上川は線路とほぼ並行に流れているため、盛岡を訪れる人は中心地へ行くために必ず橋を渡らなければなりません。北上川には「夕顔瀬橋」「旭橋」「開運橋」「不来方(こずかた)橋」など趣のある橋が並んでいます。その中でも特に地元の人たちに愛されているのが「開運橋」です。盛岡駅からまっすぐ大通りに向かって開運橋を通ると、北から流れる北上川の向こうに岩手山の雄大な姿を見ることができます。
開運橋は明治23年の鉄道開通に伴って作られました。橋梁建設を議会で否決された当時の岩手県知事・石井省一郎氏は、その必要性を訴え市内の実力者らと私設の橋を建設しました。私設の橋でしたので当初は「橋銭」という通行利用料を徴収していましたが、翌年には市の予算で買収され橋銭は廃止されました。当時の開運橋は土橋であったため、明治29年、同43年の二度の洪水で流失してしまいました。交通の要衝である橋の流失に困った盛岡市は大正6年に永久橋への架け替えを行い、またその老朽化に伴い、昭和28年には自動車が橋いっぱい通っても充分耐えられる強度を持った現在の橋に掛け替えました。
開運橋は転勤族の間で「二度泣き橋」と呼ばれています。これは赴任で盛岡に来た人が「遠くに来たなぁ、と橋の上で涙を流す。しかし、時が経ち次の転勤で盛岡を離れるときには去りがたくてこの橋の上で再び泣く」(1)という意味です。その名付け親は第20代日本銀行盛岡事務所長・古江和雄氏と言われています。
私も転勤族で、全国を転々としました。 初めて盛岡に来たとき、同じように開運橋から岩手山を見て「遠くに来てしまったなぁ」と涙があふれました。そして2年半後、次の転任地に行くときには温かい土地柄の盛岡を去りがたくて、胸がふさがる思いでした。その思いが高じて、盛岡に家を建てて引っ越して来てしまったのです。開運橋はいまや「ふるさとの橋」となりました。

参考資料
岩手県土木課編(1936)『いわての橋』岩手県土木課
吉田義昭(1995)『盛岡 明治・大正・昭和 「事始め百話」』郷土文化研究会
岩根哲哉(1994)『北上川の橋』日刊岩手建設工業新聞社
吉田義昭・及川和哉(1991)『図説 盛岡四百年 明治・大正・昭和編』郷土文化研究会
吉田義昭編(1972)『目で見る盛岡 今と昔』盛岡市公民館

(1)濱岡正己(2009)「『二度泣き橋』の名前」,『もりおか』 , 2009年2月号 , pp.18-19 , 杜の都社

(福島雪江)

「開運橋」 つい最近この橋にペンキでいたずら書きがされて新聞、テレビ、ネットで大問題になりました。多くの市民に愛されている開運橋です。

開運橋。つい最近この橋にペンキでいたずら書きがされて新聞、テレビ、ネットで大問題になりました。多くの市民に愛されている開運橋です。

橋の北東のたもとに案内板が建っていました。賢治の短歌も書いてあります。

橋の北東のたもとに案内板が建っていました。賢治の短歌も書いてあります。

開運橋から北を望むと北上川の向こうに岩手山が見えます。この日は残念ながら薄曇りでよく見えませんでした。

開運橋から北を望むと北上川の向こうに岩手山が見えます。この日は残念ながら薄曇りでよく見えませんでした。