アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

特集 地域や風土のすがたを見直す、芸術の最前線

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#38
2016.02

「伝える言葉」をさぐる「ただようまなびや」の取り組み

前編 福島・郡山から、古川日出男の発信
2)日本語はひとつじゃない、自分もひとりじゃない

「“ただようまなびや”という集団をつくって、学校長をやらせてもらっていますけれども、他の小説家とちょっと違うかなと思うのは、自分は身体への意識がものすごく強い。わかりやすいところでは、朗読なんかがそうなんですが、昨年(2014年)は商業演劇の戯曲を書きました。戯曲という、ひとが言葉を発するために作品をつくるのは、紙で読むだけ、黙読するだけというのとは立ち位置が違うんだろうと。なんかそういうところから、僕の活動、表現の幅っていうのが出てきてるんだろうなあと思います」。
作家と言えば、デスクワークの職業のイメージがある。マラソンに親しむ村上春樹を例に出すまでもなく、だが執筆するには身体的なものが必要と考える作家は多く、古川もそのひとりだ。
しかし古川のユニークな点は、その身体性が備わる物語を外の世界に向けて発すること。戯曲での役者とのやりとり、朗読における聴衆の反応など他者との関係と、内面を描く小説世界との結合が創作活動の一環にある。
「元々小説の登場人物ってけっこう自分の分身が多いじゃないですか、どんなキャラクターにしても。でも戯曲の場合は、台詞をしゃべるキャラクターしかいないけど、ある意味で全部自分の分身なわけですよ。台詞を書きながら、喋って演じたりして、ひとり何役もやりながら戯曲をつくっている。キャラクター別の自分が10人くらいいるみたいな、変なことが起きています。それは演じているということでもあるし、(そのキャラクターに)乗っ取られるということでもある。
「ただようまなびや」は、僕が生まれ育った郡山で、昔からの知り合いの連中と一緒に学校をやろうぜって始めた。スタッフはボランティアでやっているんですけど、そいつらと会って話したり、あるいは実家で話したりすると、僕自身が訛ってくる。訛っている、福島弁になる自分っていうのは、自分なんだけど、別のキャラになってくる。じゃあそれは別人なのかというと、それも俺なんだ。
元々ひとりのひとのなかにはいくつものキャラクターがあって、無理矢理訛ってしゃべろうとすると、完全に演じている福島県人になる。だったら、それは自分のなかにいないのかといったら、いるわけだし。日本語ってひとつじゃないみたいなことを突き詰めていくと、出てくる問題ではあるんですね」。

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(左から)古川日出男、華雪、川上未映子

(左から)古川日出男、華雪、川上未映子