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アネモメトリ -風の手帖-

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#36
2015.12

生きやすい世界をつくるためのアート

前編 関係づけて、「保存と活用」するということ
5)松井さんのこれまで4
土から離れ、ふたたび戻る

資金もつきてきたところで、いったん日本に戻った松井さんは、大学の非常勤をしながらお金を貯めて、イタリアに“戻る”つもりだった。しかし京都で生活するうち、こちらでも仕事ができる環境が整ってきた。比叡山の麓にある八瀬に住み、制作を始めたのだった。

——八瀬のケーブルの近所に3万坪の土地を借りて、木こり小屋で制作してたんですよ。で、大きなコミッションワークの作品を納めた後、東京の秋山画廊での個展に向けて連日窯焚きしてたんだけど、個展が始まる2週間前に火事になって。全焼した。3月から4月にかけてずっと窯を焚いてて、蓄熱された地面に接した基礎が木で、それが発火したんです。

窯焚きを終えて朝の4時に寝て、朝6時に大きな爆発音で目が覚めた。窯から火柱が上がっていた。電話線は切れていたから、電話しようと京福電車の八瀬遊園地駅まで、三宅一生のカーディガンを羽織ってパンツで走っていった。

——ショック? それがそうでもなかった。いや、きれいだったんですよ。火柱が上がって、焼け野原で真っ黒けのなかで、7万円で買った羽根布団の羽が風にふわ〜って舞い散ってるの。すごいきれいで。山のなかで、真っ黒けで焼け野原で、羽根布団。モノクロ。俺ってドラマやなって思ったね。
まあでも、大金を得たのにすぐ火事になって、すってんてん。なんのこっちゃって感じでしたね。それでも展覧会のためになんとかせなあかんというので、半分焼け残ったプレハブのなかで生活しながら制作し、友達の窯を借りて焼き上げた。それが日本での初個展でした。

日本版「Isola」 キャリア前半の集大成となる作品で、火事の焼け跡から生まれた 撮影:森岡 純

日本版「Isola」 キャリア前半の集大成となる作品で、火事の焼け跡から生まれた 撮影:森岡 純

きれいさっぱりと全て失ったあと、松井さんは鞍馬に移る。京都一のパワースポットは、摩訶不思議な場所だった。

——パワーをもらったかどうかはわからんけど、鞍馬はほんまにおとぎ話みたいな世界やったな。じいさんばっかりの町内会の会合で、妖怪とか狐憑きとかいう話がふつうに出てくるの。「この間白蛇の祟りがあってな」「山椒畑で大蛇におうた」とか。「二軒茶屋で狐につままれて、家に戻ってこれなかった」とか、そういうのをまともな顔してしゃべらはって。面白すぎる。いつの時代やって感じでした。
僕の前にはいつも結界が現れるんですよ。その結界をいつもどこかで乗り越えてしまうんだよね。で、あとから「あれは結界やって、乗り越えてはいけなかったんだな」って気がつくんです。

鞍馬では窯はつくったものの、陶芸以外のことをしようと思ったという。アルミニウムやブロンズ、木彫、プラスチック。10年ものあいだ、土は全くさわらなかった。

——彫刻の展覧会とか、個展中心に仕事してました。アルミの溶接とかよくやってたな。そのころは、焼きものの世界で生きていくなんて全然思っていなかった。じゃあ彫刻の世界で生きていけるかといえば、彫刻には彫刻でしっかりした世界があったし、行き場がなかったです。
でも、いつかは誰しも息つぎせなあかんときがあって、そこから出て行く方法があるというのを経験的に知っていたから、とにかく今やりたいことをやろうと思った。みんなが「お前は陶芸をやったほうがいい」と言ってくれるし、キャリアからしても、仕事場の条件からしてもそのほうがいいのに、なぜかそういう声が耳に届かなかったね。アルミとか溶接の勉強をしたいとか、ブロンズが面白いとか、10年かけて、ヨーロッパの美術につなげようとしていたと思う。
僕の近代化はそこだったと思う。「近代化」という言葉は洋風でしょ。「モダニズム」も日本で生まれた言葉じゃないし、その10年間で近代的な自我に目覚め、いろんな実験を繰り返すと同時に、美術のモダニズムの限界も感じた。それならむしろ、陶芸でやっていく道があるな、と。

土から離れ、さまざまな素材を扱いながら、松井さんは何を、どのようにつくるかという方向性を模索する10年を過ごした。そこで見えてきたのは「彫刻」や「陶芸」というジャンルにとらわれない土との向き合いかたであった。陶芸のキャリアがここから、ふたたび始まったのである。