アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

特集 地域や風土のすがたを見直す、芸術の最前線

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#29
2015.05

奥能登の知恵と行事 息づく豊かさ

後編 根ざした土地で、見出した価値を伝える
2)輪島の土蔵修復プロジェクト(1)
能登半島地震から立ち直る

2007年3月25日、能登半島を地震が直撃した。
移住3年目の萩野さんにとって青天の霹靂とも言うべき出来事であり、期せずして、地域と深く関わりをもつ転機ともなった。輪島市、穴水町、七尾市では、最大震度6強を観測。阪神・淡路大震災のような都市型震災と比べれば、建物は大きな被害を免れたように見えたが、その後の調査で塗師蔵(ぬしぐら)などの土蔵が被害を受けていることが明らかとなった。

——漆塗りの下地に使う地の粉が能登半島で採れたこともあり、輪島では古くから漆塗りが栄えてました。輪島塗の塗師の住まいは、「住前職後(じゅうぜんしょくご))」と言われ、表に住宅、奥に仕事場が配されています。塗師蔵は敷地の最も奥にあるため、表通りからはその被害がわからなかったのです。(紀一郎さん)

仕事場の前面にある、下屋(トマエ)で下塗りや研ぎ作業をし、奥にある塗師蔵で完成品を保管し、上階で漆の上塗りを行うというのが、塗師屋の典型的なつくりだ。漆塗りは、塵や埃が大敵で、温度や湿度を一定に保つことも重要。塗師蔵は理に適った場所なのだ。
震災直後は、状況把握や罹災証明の発行で、行政は手一杯。建物が壊れて困っている被災者のために、紀一郎さんは仲間と無料点検相談を行い、1ヵ月の間に約300件の相談を受けた。被災住宅は行政から援助金が支給されたが、土蔵などの付属建築物はその対象外。ただし、解体撤去する場合は無償——。そのため、次々と土蔵が取り壊されていく。危機的状況に、日本を代表する左官職人の久住章氏*1が中心になって、本格的な実態調査が実現した。

——約20棟の被害状況を調査した結果、輪島の土蔵が大きな被害を受けた理由が明らかになりました。用いられていた土の粘性が砂のように低いこと、小舞(土壁の下地)に使う縄の量が少なく編み方も簡単であること、土が十分乾燥していない段階で塗り重ねたことなどが、要因と考えられました。輪島は地震が少なく、耐震よりも耐火に重点が置かれたことが、被害を大きくしたのかもしれません。(紀一郎さん)

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(上)塗師屋のある通り(下)塗師蔵の土壁の強度を保つ竹小舞

(上)塗師屋のある通り(下)塗師蔵の土壁の強度を保つ竹小舞

同時に実態調査では、土壁が崩落していても、木構造はしっかりしている土蔵が多いことも明らかとなり、多くが修復可能であることも明らかになった。紀一郎さんによる報告書『輪島の土蔵修復活動』のなかで、久住氏はこう述べている。

……左官技術の視点から、土蔵は左官技術のひとつの極みであるが、土蔵の新築や修復の仕事の機会は稀で、それどころか、土を扱う仕事、左官仕事そのものが極めて少なくなってきている。つまり土蔵を修復することは、左官技術の伝承にも極めて有意義とのことであった。(『輪島の土蔵修復活動』より)

能登で育まれた伝統を守り、さらには、日本の左官技術を伝承する場にもなる。すぐに土蔵修復実行委員会*2を発足し、全国から集まった左官職人、建築家、一般の方々や学生たちのボランティアと共に、紀一郎さんは土蔵の修復に奔走した。

崩落した土壁をすべて撤去し、木舞からつくり直した土蔵の土壁。手打ち、大直し、たて縄入れ、よこ縄入れ、何層も土が塗り重ねられている。サヤに囲まれたこの土蔵では、風雨にさらされる心配がないので、この段階で当面の修復を終えた。将来、余裕ができたら中塗り、漆喰仕上などを施していく予定

崩落した土壁をすべて撤去し、木舞からつくり直した土蔵の土壁。手打ち、大直し、たて縄入れ、よこ縄入れ、何層も土が塗り重ねられている。サヤに囲まれたこの土蔵では、風雨にさらされる心配がないので、この段階で当面の修復を終えた。将来、余裕ができたら中塗り、漆喰仕上などを施していく予定

*1 久住章 兵庫県淡路市出身の左官職人。三代続く左官の家に生まれ、建築家とも数多くタッグを組む。長男の久住有生も、今後を担う左官職人として注目を浴びている。1999年、日本建築学会文化賞受賞。

*2 土蔵修復実行委員会
2007年10月にNPO法人輪島土蔵文化研究会に発展。2014年にNPO法人を解散し、現在は任意団体として活動している。