アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

特集 地域や風土のすがたを見直す、芸術の最前線

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#40
2016.04

幸せに生活するためのデザイン  雲仙小浜から

前編 城谷耕生の仕事

2.  バブルの東京、建築とデザインに疑問を持つ

80年代の終わりごろ、城谷さんは東京で建築とデザインを学んでいた。「めちゃくちゃ積極的な」学生で、講義のときには一番前に座って、聞いた講義と関係ないレポートも見てもらう。先生方に座右の本を聞き、神保町で手に入れて片っ端から読破する。現代美術の展覧会も週に5本以上は見る。吸収できることはすべて吸収したい、という好奇心と知識欲で動いていた。

———インテリアセンタースクールに通っていたんですけど、バウハウスに影響を受けたひとがバウハウスのようなところをつくりたいと始めた学校だったんです。それがよかったかもしれませんね。
1年生のときのカリキュラムは造形作家やキュレーターなどの先生ばかりで、家具や建築の専門家はいなかったんです。1年生の最後には、現代美術の先生から1年間手ほどきを受けてジョナサン・ボロフスキーをやりました。ボロフスキーの展示空間をデザインするという課題でした。

デザインや建築を志したものの、最初にふれたのが現代美術というのは興味深い。
その一方で、城谷さんは建築事務所やデザイン事務所にもアルバイトとして出入りしていた。時はバブルの最盛期、建築に巨額がつぎ込まれ、東京に奇怪な建物が次々と生まれていたころだった。
———表参道あたりに、とんでもない建物ができたりしてたんですよ。建てた直後に、建築基準法に引っかかるからと解体命令が出て、何億円もかけてつくったものが破壊されて。そういう時代だったんですよね。それを見ていて、デザインや建築は自分のやりたいことじゃないというのがわかってきたんです。「デザイン」ってとんでもない仕事だな、と。こんな商業主義の片棒を担ぐようなことは一生の仕事にするもんじゃないと感じていました。

好景気の大都市で建築ありように疑問を抱いた城谷さんは、アートに可能性を見出していた。

———僕はそのころモダンアートが好きで、フランク・ステラとかリチャード・セラ、ロバート・ラウシェンバーグなんかが面白かったんです。デザインや建築で役に立たないものをつくるぐらいなら、もっと純粋にアートの造形をしたほうがいいんじゃないか、と。大げさな話、ピカソのゲルニカみたいな感じでひとの役にたつ行為ができるんじゃないかとかっていうのがあって。

イタリアに行きたいと思ったのも、アーティストのマルチェロ・モランディーニに興味があったから、そしてヨーロッパ各地を見てまわったりできるからだった。ただ、留学ではなく現地で働こうと思っていたから、そうなるとアルバイトをしてきた建築関係の仕事がやりやすかったし、お金にもなった。日本の建築事務所で建築模型をつくってきたが、それがイタリアでは有用な技術だったのだ。

———ミラノに行って、まずは設計事務所に入りました。僕は安い給料で模型をつくるというので重宝されて、働くことになったんです。
その一方で、演出家でアーティストの多木陽介さんに出会って、多木さんの舞台美術のデザインとか、一緒にインスタレーションもやったんですよね。イタロ・カルヴィーノの『見えない都市』を題材にした舞台なんかをつくっていたんです。

ミラノに渡ってしばらくは、当初思っていたとおり、アートにかかわる生活を送っていた。デザインを自身のやるべきことと意識するようになるのは、それから数年のちのことである。