アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

特集 地域や風土のすがたを見直す、芸術の最前線

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#21
2014.09

<ひと>と<もの>で光を呼び戻す 東京の下町

後編 愛着をもって、蔵前に根ざす
2)「オンリーワン」を支える底力
箔押職人 田中一夫さん

ガッシュ、ガッシュ、ガッシュ……。
町工場の機械の音が路地に響く。あいていた扉からなかをのぞくと、ひげを蓄えた職人と目があった。田中一夫さん、田中箔押所の三代目。界隈のクリエイターに慕われる兄貴分でもある。

田中一夫さん

田中一夫さん

創業80年あまり。海外の下請けに仕事を奪われて閑古鳥が鳴いていると嘆く町工場の多いなか、田中箔押所は新しい仕事が引きもきらず、先代とともに毎日工場で汗を流す。職人は田中親子のほかに5年目の職人と50年以上勤めるベテランがいる。
箔押しとは、エンボスをつけて金箔や色箔を入れる仕事だ。革小物のデザイナーがロゴ押しを頼みにきたり、ノートや名刺に社名を箔押ししたり。
箔押しする素材は布に紙に革と、なんでもあり。相棒のプレス機械を操りつつ、細かい調整は手作業で、あらゆる注文に応えていく。

———若いクリエイターやデザイナーとの仕事は、大変といえば大変だよ。みんないい意味で先入観がないから、修業を積んだひとたちや量産メーカーなら絶対に持ちかけないような注文をしてくるの。でも、それでいいんだと思う。安全圏にとらわれていると、斬新な商品はできないからね。それに、「3,000個つくってくれ」と言われたら悲鳴を上げちゃうけど、せいぜい50やそこらなら、「なんとかがんばりましょう」ってなるよ。もちろんちゃんと説明をして、それなりの料金をいただく。「職人仕事は儲からない」なんていうひとは、仕事じゃなくて道楽でやっていると思う。職人といえども、ある程度利益を出して生き残っていくことが大切だよ。

この日、田中箔押所ではノートに名入れをしていた。色とりどりのノートを1冊ずつプレス機に挟み、色箔を重ねると、アルファベットで名前を刻印していく。依頼したのは「カキモリ」だ。2010年に国際通り沿いにオープンした、個性的なステーショナリーショップ。田中さんをはじめ、地元の職人と積極的に組んでオリジナルの文具をプロデュースしている。
ここ10年ほど、蔵前には地元の職人の力を生かして個性的なものづくりをおこなう店やアトリエが増えてきた。「カキモリ」に「m+」、生活用品店「SyuRo」、前編で紹介した台東デザイナーズビレッジを拠点にアパレルブランドを展開する「Romei」、アクセサリーブランド「フィリフヨンカ」……。彼らのクリエイションを支えたり、モノマチ(台東区内のものづくりとまちづくりをテーマにしたイベント。前編参照)への参加を要請され、自身の工房を一般公開したりするなかで、職人たちの意識が変わりつつある。
この界隈の職人たちは、下請け業を基本としているため、これまで自分の関わった仕事の完成形を見ることができなかった。そのため、仕事に誇りはあっても、一般のひとが楽しんでくれるところまでを想像することが難しかった。それが同じ台東区内で製品が販売され、ユーザーの声も直接届くようになった。さらには田中さんのように、新しいものづくりを支え、積極的にクリエイターと関わるひとも出てきた。まだまだ表に出たがらない職人が多いけれど、新たなものづくりを歓迎し、力を貸してくれるひとたちが増えていることは事実だ。

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(上)箔押用の活字 (下2点) 選んだ活字を枠に納める。先代の洋一さん

(上)箔押用の活字 (下2点) 選んだ活字を枠に納める。先代の洋一さん

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(上)ノートの名入れ加工をおこなう。ノートの表紙と箔と活字を重ね、熱を加えてプレスする(下)ロゴを箔押したノート

(上)ノートの名入れ加工をおこなう。ノートの表紙と箔と活字を重ね、熱を加えてプレスする(下)ロゴを箔押したノート

田中さんが次々と新しいことに挑戦できるのは、田中箔押所が日用品製造に深く関わっていたからとも言える。

箔押し業を始めた祖父の時代は、帽子の名入れを多くおこなっていた。戦後、ベビーブームが到来すると、今度は卒業アルバムの表紙に箔押しをしたり、ランドセルや学生鞄に校章を入れたりといった仕事が増えてきた。そのあとは、デザイナーズブランドの全盛期。「来る日も来る日も、朝の8時から夜中の2時まで、革のバッグや財布にブランドロゴを押しまくっていた」と田中さんはふりかえる。

国内の製造業に陰りが出てきたのはバブル崩壊後だ。日本企業が中国やベトナムに子会社をつくり、下請け仕事を賃金の安いアジア諸国に任せるようになった。どう生き残るか考えていたころ、若い作り手からの発注が集まるようになった。

意外なアイデアを口にするひとも多い。それでも田中さんが「やってみましょう」言いえるのは、創業以来さまざまな素材を扱ってきたという自負と経験があるからだ。

———先代のころから、うちは時流に乗った仕事をなんでもやってきたの。だから、どんな注文にも対応ができるようになったんだね。今はこの界隈でも親子ふたりだけで町工場していたりとか、継ぐひとがいなくて店をたたんだりするところが多い。親父を亡くして息子ひとりで寝る間もなく働いているひともいる。それに比べてうちは、80歳の今も親父が現役で働いてくれて、下には職人がふたりいるからね。わたしが新しい仕事にかかりっきりでも安心していられる。そういうこと、昔は感謝していなかったけれど、最近はありがたいなと思っているんです。

江戸時代から今に至るまで、職人たちはこの界隈で柔軟に技術を生かしながら、折々に求められるものをつくってきた。下請け仕事だから、どんなに精度の高い仕事をしようと、商品に名前が刻まれることはない。しかし名を残すことよりも、ひとに求められる仕事をすることが、職人たちの誇りであり、めまぐるしく移ろう時代を生き抜く知恵でもあった。
経験が培った技術を、注文に合わせて生かしていく。時代の価値観がどんなに変わろうと、その時代に応じて柔軟に技術を生かし、求められるものを生み出していく。それがこのまちで長きにわたって日用品を生み出してきた職人の底力なのだ。