アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

特集 地域や風土のすがたを見直す、芸術の最前線

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#20
2014.08

<ひと>と<もの>で光を呼び戻す 東京の下町

前編 台東区「徒蔵(かちくら)」界隈を歩く
3)真に機能する存在であるために 創設の経緯と進化

鈴木さんは、もともとは企業でマーケティングや産地活性化事業を担当していた。独立後、ものづくりの産地や企業およびクリエイターのマーケティング支援に関わるようになった。台東区からデザビレの運営業務を委託されるようになってからは、デザビレの「インキュベーションマネージャー(村長)」に就任、入居者の選考からビジネス指導まで全面的に関わっている。
デザビレは行政が立ち上げた創業支援施設でありながら、支援を受けることにとどまらず、入居者が自発的に道を切り開いている。その結果として、ファッション業界の登竜門として認知されるようになった。
「クリエイティブの才能があるけれど、お金がない、ノウハウがない、経験がない。デザビレはこうした人に使ってもらう場所なんです。今や日本で一番入居希望者が多い創業支援施設。でも、最初からうまくいったわけではないんですよ」と鈴木さんは笑う。

デザビレに住む「長谷川さん」。静かに熱い空間で、なごませてくれる存在だ

デザビレに住む「長谷川さん」。静かに熱い空間で、なごませてくれる存在だ

実はデザビレ設立の背景には、台東区の深刻な人口減少と産業の落ち込みが関わっている。
現在台東区と呼ばれている一帯は、江戸時代には元禄文化の中心地、明治時代になると鉄道が開通してレンガ造りの上野駅舎が完成し、周囲には割烹料亭がこぞって出店した。また、このまちには多くの職人が集住していた。1913(明治3)年の記録によると、主な生産品は下駄、筆、キセル、たんす、団扇(うちわ))骨……つまりは当時の日用品。ガラス製品や洋服、靴もつくられていた。面積は10km²と23区内最小でありながら、第二次世界大戦前は46万4千人が暮らし、23区内最多の人口を誇っていたという。空襲などでいったん人口が激減し、終戦直後には戦前の5分の1になったが、復興とともに急激に増加。

———戦後のピークは1960年ごろで、31万9千人。この頃がおそらく職人さんがまちにあふれて、古き良きものづくりが最も盛んだったんじゃないかな。ここでいう「職人さん」というのは、京都みたいな伝統工芸系の職人さんではなく、産業系の職人さんなんですね。

ところが、その後は人口が減少し、ついには戦後ピークの半分以下になってしまう。

———理由はおそらく、海外製品に押されたことと、どんどん地価が高くなっていったことにあるんじゃないでしょうか。それによってものづくりの工場が東北や近隣の葛飾辺りに移転した。同時に、小中学校も次々と閉校になった。平成になってから台東区内では48校中22校が廃校になっているんですね。台東区では、これを病院にしよう、フランス人学校に貸し出そう、福祉施設に建て替えようと、さまざまな使い方が提案されました。そのなかで「廃校になった小島小学校を創業支援施設にしよう」という声があがったんです。当時、創業支援施設をつくれば、国と都から改装補助金が出たんです。

台東区の産業の基盤はものづくり。とはいえ、海外での安価な下請けが定着している今、これまでと同じものをつくっていては生き残ることができない。付加価値の高いデザイン性のあるものをつくってはどうかという声が地元からあがり、若手デザイナーを招致して創業支援をおこなう「台東デザイナーズビレッジ」が誕生したのだった。
入居できるのは、靴や鞄、バッグ、ベルト、帽子、アクセサリー、ジュエリー、アパレル等、ファッションおよびデザイン関係の個人や中小企業。入居期間は基本3年間。部屋面積は20㎡と40㎡。24時間365日利用可能。賃料格安、ただし台東区内での創業希望者にかぎる。

———初回は、18組の募集に45組応募がありました。ところが、自分のブランドを伸ばしたいという成長意欲に満ちたひとのいる一方で、「今いるところよりも安い家賃だから」という縮小思考の人たちもいてね。そういうひとたちは「伸びるつもりはないので、アドバイスはいらない」って言ったり、「自分はレベルが高いから他のひととの交流はいらない」というひともいたり。倉庫代わりに使っているひともいました。
これではだめだと思って、設立後半年ほどで、目標を再設定しました。まずは、知名度を高めよう、と。入居者の売り上げ自体は本当に小さいので、それだけで評価されると施設の価値が伝わらないんです。
次の目標としては、施設のイメージをアップさせて、優秀な入居者を集めよう、と。これは、入居者の成長意欲が高くないと成り立たないので、審査にたっぷりと時間をかけました。

設立後3年目、2006年の第2期募集では、15部屋の募集に90組の応募があった。鈴木さんは、70組と1時間ずつ会って話をし、じっくりと選考した。

———しゃべるのが上手だったり経歴が華やかだったりすることよりも、たとえ面接で緊張していてもクリエイティビティが感じられるとか、熱意があるといったことを基準に入居者を選んでいきました。こうしてレベルが上がっていった。入居者同士も結束するようになり、ここの雰囲気もよくなりました。

入居者は半年に一回、ビジネスやブランド育成に関する目標達成シートを作成。その記述をもとに、鈴木さんは何度も面接を重ねる。

———クリエイターって、売れないと迷ってくるんですよ。自分のクリエイションがまずいのか、って。それで、だんだん売れそうなものをつくっていって、個性をなくしていく。でも、伸びるかどうかは、そのひとに合っているやり方をしているかどうかだと思うんです。服づくりに特化しているひともいれば、コンセプトやイメージを考えることが突出しているひともいる。コミュニケーション能力が際立って高いひともいる。それをどうお金に換えていくかが大切です。

ヒアリングは平均して1回につき約2時間だが、お互いに熱が入り、4〜5時間にわたることもあるという。産地見学をおこなったり縫製の組合を紹介したりといったネットワークづくりも欠かさない。
そのバイタリティーはどこからくるのだろう。そう尋ねると、鈴木さんは笑った。

———特別なことではなくて……たぶんみなさんも、才能があって頑張っているのに儲かっていないひとたちがいたら、何か自分にできないだろうかと考えて応援すると思いますよ。