アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

特集 地域や風土のすがたを見直す、芸術の最前線

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#12
2013.12

暮らしのなかの「うつくしいかたち」

前編 民家博物館「四国村」と現代美術の出会い
2)江戸から昭和に至る日本の暮らし
村内には讃岐地方の産業にまつわる建物が8棟復原されている。写真はサトウキビの汁を絞るための「砂糖しめ小屋」

村内には讃岐地方の産業にまつわる建物が8棟復原されている。写真はサトウキビの汁を絞るための「砂糖しめ小屋」

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3棟の退息所(燈台守の住宅)と燈台も移築されている。写真は旧大久野島燈台。三原瀬戸航路の要所を照らす燈台として明治27年5月に点灯された。内部の螺旋階段が美しい

3棟の退息所(燈台守の住宅)と燈台も移築されている。写真は旧大久野島燈台。三原瀬戸航路の要所を照らす燈台として明治27年5月に点灯された。内部の螺旋階段が美しい

四国村ギャラリー。収集した美術品を展示する目的で2002年に開館した

四国村ギャラリー。収集した美術品を展示する目的で2002年に開館した

四国村は1976年(昭和51)に開村し、かれこれ40年近い歴史がある(愛知の「明治村」のオープンは1965年)。創設者は四国ベースの運送業者で、四国内を縦横無尽に車で移動するなか、この地域に残っていた古い茅葺の民家や古くから受け継がれてきた地場産業に関連する建物が高度経済成長のなかで消えていくことを危惧し、その保存に動き出したという。そして、解体した古民家を屋島のふもとに移築、復原することからこの村の歴史が始まった。屋島山麓にある5万平米の敷地に、四国四県にあった江戸時代から大正期の古民家、建造物33棟が集められている。「建造物が集まっている」と聞いて、わたしは現地に行くまで、住宅展示場や各国パビリオンが平場(ひらば)に立ち並ぶ万国博覧会場をイメージしていたが、ここはまったく印象を異にする。四国村は瀬戸内海国立公園のなかにあり、自然の木々や花々が生い茂っていて、山麓の高低差のある敷地に民家がそれぞれ独立して点在するよう、周到に配置されている。高台からは、讃岐平野の広がりが見渡せる。
代表的なスポットを紹介してみよう。四国の奥地・祖谷(いや)にある「かずら橋」の復原版を通り抜け、「小豆島農村歌舞伎舞台」に出る。そこから坂をのぼって、地方色豊かな建物に出会う。四国村のパンフレットにある解説文には、納得だ。

「建築、特に民家では、それぞれの土地で、その土地の職人たちが建て、育ててきたものであるから、それぞれの土地により特徴がある。日本語に各地の方言があるように、民家にも地方色がある。それは、間取り、木組み、屋根の形式など各所にあらわれ、またその中で行われる生活様式を反映している」

古民家の多くが四国山間部の農家だが、それぞれに個性がある。古民家に詳しくないわたしでもたいへん珍しく思ったのは、この地域特有の産業に関連する建物である。円形の「砂糖しめ小屋」や柱の少ない大空間を持つ「醤油蔵・麹室」などは用途に合ったかたちをしている。「讃岐三白」といわれるように、晴天の多い気候を生かした塩、砂糖、綿の生産が近世に盛んだった名残りである。考えると、弘法大師・空海の出身地、満濃池の讃岐だからこそ。とはいえ、ここにあるのは、江戸期のものだけではない。明治以降の「近代化遺産」がある。瀬戸内にはかつて数多くの灯台とその灯台守が暮らす「退息所」があり、その用途を終えた建物のいくつかが、移築されている。いずれも明治初期にお雇い外国人の手で設計された、和洋折衷の館だ。さらに、安藤忠雄氏が設計し、約10年前に竣工したコンクリートとガラスの現代建築「四国村ギャラリー」がある。ここには後述するような、この村が所蔵する民具や美術品が展示されている。このように、江戸期や戦前への「タイムトラベル」を体験できるのが四国村といえる。
例年にない高温が長期で続いたこの夏、われわれは夢中で各棟をたどり、気がつくと一番高い、「大久野島灯台」(元:広島県)のそばまでたどりついていた。木々の間から通る風が心地よい。灯台からは、不思議な電子的な音が聞こえていた。