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アネモメトリ -風の手帖-

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#45
2016.11

本、言葉、アーカイヴ

後編 共有し、受け渡していくために 宮城・仙台
5)誰かの目になって風景を記録し、分け合う手法をつくる
小森はるか+瀬尾夏美さん1

せんだいメディアテークのわすれン!に関わっている作家は数多くいる。
アートユニットの小森はるか+瀬尾夏美(以下、小森+瀬尾)は、2012年からわすれン!に参加した。映像作家の小森さんと、作家で画家の瀬尾さんは、津波で大きな被害を受けた陸前高田に2012年に移り住み、そこで出会ったひとびとの言葉と風景の記録を映像作品としたり、その作品と絵や言葉を組み合わせて展示空間をつくったりしている。
今回はどうしても、ふたりに話を聞きたかった。映像作品『波のした、土のうえ』は、独特のつくられかたをしている。なぜ、このような手法に至ったのか。東京の芸大生だったふたりが、被災地に住まうことで、表現したかったことは何だろうか。

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(左)小森はるかさん(右)瀬尾夏美さん

2011年3月。ふたりは東京芸大を卒業して、同大学院に進学が決まっていたが、震災が起こって、生活が一変する。直後の3月30日にはレンタカーを借り、ボランティアに出かけていた。その行動範囲はかなり広く、北茨城の沿岸部からはじめて青森の八戸まで、800kmの距離を10日間で移動したのである。何が起こっているのか、自分の目で確かめたい、そして少しでも役に立ちたいという気持ちだった。

———いろんな土地を動いていると、その土地土地で被害の差がわかる。行政のパワーバランスも違うし、住んでいるひとも方言も違う。だから、最初に思いついたことってすごく単純なんですよ。どういう状況かレポートしようとブログを始めたんです。写真は載せず、ここはどういう道路で、ボランティアセンターはここです、漫画喫茶があるから泊まれますとか、ボランティア初心者のひとが居場所をどうやってつくればいいのかがわかるブログ。最初はそれぐらいを、役に立ったらいいなって。(瀬尾さん)

その場所でできることは何でもやって、状況のレポートをつづけながら、ふたりは土地のひとたちの話を聞いていった。そのなかで、3つ印象に残った出会いがある。いずれも年配の女性だった。

1人目は、石巻で出会った、瀬尾さんの先生の親戚というおばちゃん。家は住宅街にあったが被災の程度がひどく、まわりは瓦礫だらけ、家は1階の天井まで浸水していた。それでも、同じように被災した近所のひとたちと料理を再開したところだった。「東北は壊滅した、という妄想でいっぱいだった」瀬尾さんは、温かい食卓に救われる。
また、そこで交わされていた会話にも驚いた。いわく、庭に流されてきた車のなかに遺体があって、おばちゃんたちはなんとか弔いをしようと考えた。同じく庭に水産工場から流れてきたタコがいたので、遺体の横に置き、焼いて弔いの儀式をやってみた。儀式を終え、食べようとしたら、砂が入っていて食べられない、と。その話を聞いていた近所のひとたちはどっと笑ったという。

———話としてはとんでもない。遺体が庭にあることや、弔いの作法がですが、それが食卓で笑われる。そのとき、どうしてこんなに芯が強いのかと思ったんです。そして、こういう光景に出会いたかったんだな、と。被災地といわれる場所のど真ん中で立ち上がっている日常を知りたかったんだな、と。それをなんとかして記録し、撮っておくことができないかと。守りつつ、外に出すことはできるんじゃないかと思ったんです。(瀬尾さん)

2人目のおばちゃんには、岩手県北の宮古市の避難所で会った。隅のほうで寂しそうにしていたので声をかけると、自分の出身はもっと北の何もない集落で、そこも被災して全部流されてしまったと言う。テレビでも報道されないようなところだったから、どうなっているかわからない。自分は精神的にもきついし、車もなくて見に行けないから、美大生なら代わりにカメラを持って見に行ってくれないか、と頼まれたのだった。
被災地にカメラを向けることは暴力的で失礼だと思い、撮影はまったくしていなかったものの、撮りたい気持ちはどこかにあった。

———おばちゃんは「あんたらの役割それでしょ」ってあっさり言ってくれるわけです。誰かの代わりとして撮ることがカメラの役割としてあるんだ、と気づかせてくれた。それじゃ、とりあえず思いついたところに行ってみようって思って、沿岸部を八戸まで上がっていって、海辺の写真とかを撮ることを始めました。(瀬尾さん)

3人目、陸前高田の少し山のほうにいたおばあちゃんは、瀬尾さんの友人の遠い親戚だった。東京から訪ねてきたと知ると「ありがとう」と感謝しながら、まちのことを猛烈な勢いで語り始めた。そして、自分が生き残って申し訳ないということと、避難所に行っても「あんたは家残っているんでしょ」と思われていると思うと、誰とも話ができなかった、とふたりに話しつづけたという。

———最後には、このまちは大好きなまちなんだけど、自分たちは全部流してしまったと。被災した風景を目の前にしながら、指をさして話してくれた。目の前の風景は悲しいけど、何もなくなってしまったというけど、きっとここには何かあるはずなんです。ここにあったものってなんだろう、と興味が膨らんできて。
そして、おばちゃんが猛烈に話してくれたことは大事なことなんだと思った。おばちゃんひとりのなかにどれだけ話さないといけないことがあるんだろう、って。ひとりの体につまったことをみんなでシェアする、みんなで持つことをしたほうがいいんじゃないかって。その手段のひとつとして、自分が外に伝えていく、媒介になって次に渡すことが、おばちゃんが見てしまったものを共有する、分け持つみたいなことにつながってこないかなと思ったんです。(瀬尾さん)

小森+瀬尾の最初の10日間は、想像をはるかに超えるものがある。凄絶なそのなかで、自分たちが何を、どう受けとめ、記録し、伝えていったらいいのかを、3人の女性たちが差し出してくれたのだった。

———誰かの目や体になって記録する、それを分け合う手法をつくる。その前には、わたしたちがほしかった、見聞きしたかったことや風景が絶対あるんです。(瀬尾さん)

瀬尾さんの陸前高田のドローイング©Komori Haruka + Seo Natsumi

瀬尾さんによる、陸前高田のドローイング© Seo Natsumi