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#258

「その場所らしさ」と「場所からの自由」
― 下村泰史

谷内春子《景‐風‐》2014

谷内春子《景‐風‐》2014

(2018.03.11公開)

 京都造形芸術大学通信教育部の卒業制作展が始まった(2018年3月11日(日)〜18日(日))。わが芸術教養学科の卒業研究レポートも、インターネット上での公開が始まった。
芸術教養学科WEB卒業研究展」は、ここでの学習と研究の総仕上げとして、「地域文化資産」を見出し、その歴史性を踏まえ特筆性を捉える、というものである。通信教育部なので、さまざまな地域で学生が学んでおり、それゆえ多様な事例が報告される。これは通学制の学科ではなかなかできないことである。
芸術教養学科WEB卒業研究展」には、毎年新たなレポートが蓄積し、日本中の「地域文化資産」のリソースブックとして成長しつつある。

ここで報告されている事例の多くは、単にその学生のすみかの近所で見出された、というだけでなく、その地域らしさ、その場所らしさ、というものを濃厚にまとっていたり、湧出させていたりする。この「その場所らしさ」というのは、考えだすとなかなかな難物なのだが、ランドスケープという、場所のかたちを作る分野を専門とする私にとっては、いつも頭から離れない問題でもあった。

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私は若い頃、ニュータウンの現場で働いていた。それまで里山だったところを切り開いて街をつくる仕事である。こうして生まれた街は日本中にたくさんあって、既存の下町よりは地価も安くゆとりのある環境で緑も多くなりがちなせいか、日本中に「緑が丘」というような街が生まれたりした。
ニュータウンは、デザインの自由度が既存の市街地に比べれば高いとは言える。港北ニュータウンのグリーンマトリックス計画や、多摩ニュータウンの基幹空間など、それまでの街にはなかったような場所も生まれている。しかし、そういう事例は並大抵でない関係者の努力と、まれな機会的な幸運があって可能になるものであって、ほとんどの場合は公共性の原理と機能性の原理とによって、特徴を欠いた、匿名的な空間がその開発の中では生まれがちである。それでもそういう中で、少しでも住む人の心に残る場所、故郷として想起される場所をつくりたい、と多くの職員たちは思って仕事をしていた。今思えば住宅・都市整備公団というのはずいぶん理想主義的な職場だったのだ。
こういう「まっさら」な街、いわれのない街に、住む人の心にとって意味深い場所をつくるにはどうしたらよいか。一つには、特徴のある形をした場所や空間をつくるというのがある。形態のデザインによる個性化である。もう一つは、さまざまな活動や営みの場をつくるということである。今のことばで言えば、コミュニティ・デザイン的なアプローチと言えるだろう。この二つは対立するものではなく、保管しあうものである。どんな空間を用意するか、はどんな活動や営みが可能になるかと関わるし、活動や営みが場所のかたちをつくっていく、という部分もある。ただ、ニュータウン開発という場面では、モノのかたちをデザインすることはできても、アクティビティをデザインすることは仕事の領野としてはなかなかできなかった(今はこの辺の事情はずいぶん変わってきていると思う)。

活動や営みと場所、ということでいえば、場所と直接関わる活動は最もその場所を強く印象づけるものになるだろう。そこから何かを生み出したり、つくりだしたりとき、人はその場所と対話をしているようなものだ。農業や里山仕事など自然とふれる仕事はそうだと思う。
「まもる」ランドスケープでは、その地域地域での人々の営みがつくり出してきた景色が大切になってくる。それは、その営みを知らない外部の人が見ても美しいかもしれないが、何よりもその場所と関わりその姿をつくってきた地元の人々にとってこそ、意味深いものとして感じられていることだろう。それ自体希少とは言えない農村・漁村の風景、里山の風景などは、そこに関わり続ける思いを持つ人があって初めて維持される。街からやってきた里山ボランティアがレクリエーションを兼ねて管理するのもいいけれど、それももともとの場所との関わりへの敬意をなければ浅薄なものになってしまう。

個々の人によって思われる場所、そうした地域の人の共同主観において意味を与えられている場所というようなものは、開発者がデザインすることが難しい場所でもある。それはかたちとしてはあまり特徴を持たないかもしれない。単なるあぜみちのようであったり、水路のようなものであったりすることもあるだろう。一方で開発で人工的に生まれた「緑が丘」などとは違った、地元の人しか使わない「あだな」のような呼ばれ方を持っているかもしれない。

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第二次世界大戦前夜、京都市は市街地の外縁部の計画的な開発にとりかかっていた。本学瓜生山キャンパスの前に広がる住宅地もそのころできたものだ。それまで田畑だったところを区画整理し市街地化したときに、京都市の当局は興味深い試みをしている。京都の歴史的な中心市街地は、道路を挟んでその両側が同じ「ご町内」になるという、特徴的な両側町の町割をもっているのだが、そのシステムを、新たな新市街地に導入しようとしたのだ。こうした町割は、瓜生山キャンパス近所の高原町のあたりに部分的に見られるほか、洛北地域の鴨川の西岸側、上堀川、紫野、賀茂といった地域に集中して見られる。これは、都市計画史的には結構興味深いことだと思うのだが、これまでほとんど論じられたことがなかった。これは、有職故実の研究者や京大の歴史学者が関わって、「京都の伝統」を尊重するものとして計画されたものであるらしい。都市空間編成技法の「京都らしさ」である。
この「京都らしさ」が、これまで農村だった新市街地を覆っていくとき、何が起きているのだろうか。区画整理の工事で風景は一変してしまうが、さらに町の空間構成についても都心のそれが導入されてくるのである。それまで地域の人が生活と生業の中で意味を与えてきた、微地形や地物、字などは上からの計画によって消去され、それまでの小字の境界線とはまったく異なる原理で町の境界線が組織される。そしてそれが「京都の伝統」なのだという。ここでは、2種類の「その場所らしさ」の軋轢が起きている。

この「上から」もたらされた、新型の両側町計画は、土地所有関係が複雑化し、民主化が叫ばれた戦後期には使われなくなってしまう。土地をめぐる権利調整でもある区画整理を動かすなかで、「上から」のモデルの押し付けが難しくなってきたのだと思われる。

こうした、「上から」の場所への意味付け、由縁づくり、といったことは、今も行われることがある。例えば、奈良近郊の里山を切り拓いてニュータウンをつくり、そこの町に「右京」「左京」といった名をつけてみたりするのもそうした試みに入るだろう。新市街地に歴史都市のイメージを持ち込むのは、先の両側町システムの例と似ていると言えるかもしれない。

また「風土工学」と称し、新しくできたダム湖に伝説をつくり、それにちなんだ地名をつける、といった仕事をしている人もいる(個人的には、ここまでくると地域史の捏造に近いのではという気もしてしまう。具体的な仕事はここでは紹介しない)。いずれにせよ、それまでとまったく姿を変えてしまう場所に、新たな関わりのよすがというか、きっかけをつくることの意義はあるのだろう。しかし、それが一部の技術官僚によって、「上から」行われることについては、地域文化資産を考える立場からは、一定の注意をもって見るべきであると思う。

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と言っておきながら、最後になって大きく話題を変えてしまおうと思う。
ここまで、権力によってもたらされる「その場所らしさ」と、地域の人々によって生きられることによって固有化されてきた「その場所らしさ」を対置し、後者にややロマンティックな思い入れをもって語ってきたわけである。しかし、地域の人がその場所にどのような視線を注ぎどのような意味を与えてきたのか、ということについて、単にポジティブに考えればいいのかといえば、そんなこともないように思われてきたのである。共同体は懐かしいものであると同時に、時に死ぬほど煩わしいものである。同じように風景を見なければならない、という圧力もまた苦しさをもたらすものである。

そんなことを考えたのは、新進日本画家の谷内春子さんのお話をうかがってであった。
谷内さんは、その創作を踏まえた「<景>の可能性について -複合的な風景表現の考察- 」という京都市立芸術大学より博士の学位を授与されている。去る2月28日に開催されたNPO法人アート・プランまぜまぜの研究会でその独特の思考について聞いた。

谷内さんの絵は、風景画のような構成をもちながら、いわゆる風景画を逸脱して抽象的な表現に近づいてきている。谷内さんは、自身の試みを「風景画」と呼ばれることに違和感を感じていたという。「風景」はよく言われるように、客観的な実体ではなく、見るものがいて生じる心的現象であるとされる。風景画であるということは、その場の姿を風景として見る視線が事前にあり、それをなぞるということになる。谷内さんは、誰かによって既に見られ、風景化される以前のもの(景)を見ようとしているようだった。風景を風景として意味づける主体であることから自由であろうとしているようであった。

谷内さんはもうひとつのものからも自由であろうとしていた。それは実景からの自由、固有の場所からの自由である。画面内での空間の操作が進むうちに、描かれているものは現実の場所の姿からどんどん自由なものになっていく。場所の固有性から離れて、なお景であり続けているような空間のかたちを描き出そうとしているようだった。そして、それは共同体的な苦しさから解き放たれた、風通しの良い爽やかな「景」の経験であるように思われた。「場の固有性」「その場所らしさ」からあえて離陸することで吹き込んでくるものもあるのだと、思ったのである。

場所との距離のとり方には、いろいろなものがある。それについて考えていくことは、地上での自分自身のありかたを考えることでもあるのだろう。

谷内さんは、私が発起人の一人であった「天若湖アートプロジェクト」に、2005年の初回から関わってくれていた。その頃は美大の一回生だった。天若湖の風景との対話が、その表現の模索と表現者としての成長に役立ったことは嬉しく思われる。谷内さんは固有の風景からの自由を目指したが、そこには天若湖の風景との深い関わりがあった。そして谷内さんにおいては、天若湖は画家として生きた場所として特異な意味を持ちつづけているに違いない。

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参考文献

下村泰史・飯塚隆藤 , 京都市の土地区画整理事業地における町割方法の歴史的変化について , ランドスケープ研究 77巻 (2014) 5号 p.559-564
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jila/77/5/77_559/_pdf

谷内春子,<景>の可能性について -複合的な風景表現の考察- ,京都市立芸術大学博士論文(2015)
https://kcua.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=17&file_id=20&file_no=3

京都造形芸術大学通信教育部芸術教養学科WEB卒業研究展
http://g.kyoto-art.ac.jp/