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アネモメトリ -風の手帖-

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#243

$450300000
― 加藤志織

$450300000

(2017.11.26公開)

美術品のオークションで世界的に知られるクリスティーズが去る11月15日(現地時間)にニューヨークで開いた競売において1枚の絵画が4億5030万ドル(約508億円)で落札された。その絵とは、あの《モナ・リザ》の制作者であるレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452〜1519)が描いたとされる《サルバトール・ムンディ》である。
サルバトール・ムンディ(Salvator Mundi)とはラテン語で「救世主」を意味する。すなわち画面中央の青い衣服を着た長髪、巻き毛の若い男がイエス・キリスト、その人だ。それは、右手の中指と人差し指を立てて祝福を表すポーズや、聖人の肖像が描かれる際に伝統的に採用されてきた正面向きの姿からも読み取れよう。
各メディアの報道も含めてまとめると、この作品が辿ってきた来歴は以下のようになる。そもそも、この肖像画は1500年ごろに、フランス王ルイ12世(在位1498〜1515)のために制作されたが、時を経てイギリスに持ち込まれ、イングランド王チャールズ1世(在位1625〜1649)の所有となったらしい。
しかし、18世紀後半から百数十年間にわたって所在がわからなくなり、1900年に美術品市場に現れた時には画面に加筆され、レオナルドの真筆であるとは認められない状態であった。その後、1958年に再び売りに出されるが、この時には二束三文で取引されたようである。
ところが2005年に再度売買された後に、専門家による修復と鑑定がおこなわれ、レオナルドその人の作品であると認定された。作者同定の決め手となったのは、別の画家による加筆部分を除去したところ、陰影などに《モナ・リザ》と共通するきわめて繊細で高度な表現が施されていることが判明し、さらに科学的な調査によって、制作途中に修正がおこなわれた痕跡が見つかったからである。
通常、模写や贋作の類いは、最初から手本となるオリジナルに忠実に似せて描かれるため、制作途中にわざわざ構図が変更されることは考えづらい。ただ、こうした調査結果にもかかわらず、この鑑定結果に異議を唱える者も存在する。しかし、今後も調査が続けられれば、《サルバトール・ムンディ》の作者がレオナルド本人であるのか、やがて明確になるはずだ。

ちなみに、これまで最も高額で取引された絵画は抽象表現主義の画家ヴィレム・デ・クーニングの《インターチェンジ》で、2015年に3億ドルで購入された。オークションでは、パブロ・ピカソが1955年に描いた《アルジェの女たち(バージョン0)》が、やはり2015年に1億7940万ドルの値をつけている。
ピカソとデ・クーニング、共に20世紀美術の巨匠ではあるが、2作品がこれ程の価格となった原因は、投機目的の入札があったからだと考えられる。事情は《サルバトール・ムンディ》も同じである。報道が伝えるところによると、2005年に1万ドルであった同作品が、それから3度の転売を繰り返されることによって今回の4億5030万ドルにまで高騰した。
レオナルド、ピカソ、デ・クーニング、彼らは西洋美術史上に燦然と輝くスーパースターではあるが、現存する作品数においては大きな違いがあるため、投機対象としてはさすがのピカソやデ・クーニングもレオナルドには負けざるをえない。なにしろ、もともと完全な作品を目指すあまり、極度に制作期間が長く、寡作であったレオナルドの現存絵画は20点にも満たないと言われているからだ。
これはヨハネス・フェルメールの現存絵画30数点よりもさらに少ない。また、そのほとんどが美術館等の施設に収蔵されているため、売買の対象にならないことも、希少性を高める一因となっている。莫大な資金を用立てる必要はあるが、《サルバトール・ムンディ》の他に、購入できるレオナルドの油彩画はないのだ。
言うまでもないが、美術作品の価格と美術的な価値とはイコールではない。しかし、そもそも美術作品は商品でもあるために、その値段が市場のさまざまな要因によって決められることはいたしかたない。したがって、投資目的の購入も排除できない。
だが、美術作品は同時に公共性をもった文化財でもある。とりわけ歴史の篩(ふるい)をすり抜け、長い年月をかけて伝えられてきた文物は、多様な見地から多くの人々に開かれた存在であることが求められる。しかし、今回の《サルバトール・ムンディ》の競売に見るような価格高騰は、美術作品のそうした在り方、活用の仕方を困難にしてしまうことに注意しなければならい。
美術館の多くは、作品購入のための資金調達力で、ヘッジファンドや一部の資産家にはとうていかなわない。たとえ投機目的の資金流入がなくても、評価の定まった芸術作品はつねに高額である。また公的な美術館は作品購入に際しては、その美術的価値、購入価格の妥当性等について合理的な説明を求められる。ゆえに、かりに購入代金をなんとか工面できたとしても望む作品に手を出すことは簡単ではない。財政が逼迫した国や地方自治体の場合には、購入作品の美術的価値と値段が適正だと認められても、福祉や教育等に予算を優先して回すべきだという意見があるからだ。
今後、美術作品への投機がさらに加熱すれば、価格の高騰だけでなく、不安定化も起こり、ますます公的な美術館による作品購入が困難になるだろう。《サルバトール・ムンディ》の一件は、こうした美術作品や美術館を取り巻く問題について考える契機を提供してくれる。

画像:レオナルドが描いた名作《モナ・リザ》(レオナルド・ダ・ヴィンチ、1503〜06年、ルーヴル美術館)