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#238

「趣味?」をめぐって
― 下村泰史

(2017.10.22公開)

趣味は読書です、映画鑑賞です、歌を歌うことです、といったような言い方をされる「趣味」というものがある。こうした「趣味」は、仕事と対置されるものであった。ピアノ、相当お上手じゃないですか、いえいえいあくまで趣味として、といったようなかたちで。

先日、京都を地盤として活動しているシンガー・ソングライター、松田くばくさんと話す機会があった。決して有名ではないが、ユーモラスで可愛らしい曲を多く書き歌っている人である。シンプルながら練られたギターワークもすばらしい。氏は多くのライブを行っているが、主な収入は別分野の専門家としての仕事から得ている。昼間の顔を知っている知り合いからは、良い趣味をお持ちですね、ギターお上手ですね、と言われるそうなのだが、「それにはなんか違和感を感じるんですよねー」とくばくさんは言う。

「下村さんも、UOEの活動、趣味って言われたらどう思いますか?」とくばくさんは問いかける。 UOEというのは、私が参加している特殊倍音即興楽団である。私がこのバンドを通じてお金を得たことはほとんどない。しかし、これが自分にとって「趣味」といわれると、それはそうなのだけれども、なんだか少し落ち着かない。たしかにそうなのだ。

自分がやっていることが、仕事とは言えないけど「趣味」というのもちょっと違うような気がする、ということは、みなさんにもよくあることなのではないだろうか。それはどのような時に感じられるのだろうか。

「趣味」は、稼げるかどうかといったこととは別に、好きでするものである。好きでやっているうちに、だんだんあることに精通してくる。詳しくなる。上達して、上手くなったりする。「趣味」は、ある段階から研鑽を含むものになる。「趣味」はそうした自己の向上と結びついている。そしてそれは、しばしばとんでもないレベルにまで達することがある。また、「趣味」は仕事ともに、そうした研鑽の過程を通じてその人の人生を作っていくものでもあり、その人にとってとても大切なものである。だから、この文章において、「趣味」をくさす意図はまったくない。

「趣味」をつきつめていくということは、一定の規範の中を生きる、という部分があるように思う。例えば、ある楽器の演奏を練習して上手くなる、といった場合、ふつうはより上手い演奏もモデルがあり、それに近づく努力がされる。また、あることに詳しくなっていく過程では、既存のさまざまな文献を読み、自分のものにしていくということがある。技術を身につける場合でも、知識を身につける場合でも、「趣味」として取り組んでいる場合には、既存の体系の中を上へと向かう感じがある。そのことによりピアノや絵が上手になったり、オートバイや武将について詳しくなったりするのである。

「でもこれって「趣味」とはいえないよな…」と思われるのは、この規範性からはみ出しているという感じがあるときなのではないだろうか。何か新しいことをしてしまっている、新しい価値を創り出している、と感じられているときである。

もちろん、「趣味」においても、その当人は常に「未知」と出会い、それを自分のものにしていっている。ただ多くの場合、その「未知」はその人個人にとっての「未知」であり先人にとっては「既知」である。「未知」の水際線は、基本的には与えられたものである。

しかし「これって「趣味」?」と思われるようなものには、自分にとってだけでなく、他の人にとっても「未知」なのではないか、というものの提示が含まれているのではないだろうか。よくわからないものと対話したり格闘したりといった過程があり、そのなかで他者をその「未知」に出会わせる契機を生み出しているという自覚が、その違和感を生み出しているだと思う。

語弊を承知で極端な言い方をすれば、「趣味」の演奏はおけいこごとであり、「趣味?」の演奏は創造であり表現である。「趣味」の知識は雑学であり、「趣味?」の知識は研究であり学問である。

「趣味」が高じて表現や学問に至る人はもちろん多いだろう。しかし一方で、すごく上手かったり詳しかったりするが、「それで?」という人も結構いる。表現や学問に至るには、一定の技術や知識が必要だというのは本当だと思うが、「趣味」のままずっと続けていても、次のステージには多分いかない。教科書的な既存の体系を踏み外す必要があるのだ。そしてそれは、割と早い時期でもいいというか、早い方がいいのではないかとも思うのである。
この「趣味?」への踏み外しに導くのも、わたしたちの仕事だと思っている。

大学とは何を学ぶところなのかということは職業柄いつも考えている。私は都市デザインの専門教育と教養系の両方の関わっているわけだが、前者ではプロフェッショナルとしての見識と技術を身につけさせることを目指している。これは「仕事」志向の学びだと言えるだろう。では、一方の非専門的な教養教育は「趣味」志向なのだろうか。ここにはいろんな考え方があると思うが、私は「趣味?」志向のものなのだと思う。
今の世の中、ネットにいくらでも情報があるので、物知りになるのは簡単である。ひとりで何かの上手になるのだって、お手本動画がいくらでもあってだいぶ学びやすくなっている。しかしそれで済むならば、大学に入る必要などないのである。

自分をお手本や教科書に沿って向上させていくだけでなく、「未知」に出会う構えをもち、価値を与えることができ、それを他者と共有できる。そういう自律的な個人が増えることが、世の中をおもしろく変えていくことになるのだと思う。大学における教養教育とは、そうしたことを可能にする場の一つなのだ。

私じしん確信をもって、へんな声や音を出しながら、そういう場を創っていきたいと思う。