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#138

運動と活動
― 下村泰史

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(2015.11.15公開)

先日、いつもお世話になっている京都市市民活動総合センターから、活動の10年をまとめた「市民活動白書『標-しるべ-』」が送付されてきた。市民活動総合センターは、京都市内を活動のフィールドとしている市民活動を支援する場で、私自身所属しているNPO団体の仕事でミーティングに使わせてもらったり、廉価な印刷サービスを利用して大量のチラシを刷ったりと活用させてもらってきた。市民活動団体のニーズをいつも細やかに読み取ってサービスを更新してきたその仕事には、いつも頭が下がる思いである。
その市民活動総合センターの一角に、市民活動団体のインキュベーションというか初期の活動支援のために、「スモールオフィス」というスペースがある。棚と机と電話があり、そこで連絡や資料作成等の事務仕事ができるようになっている。メールボックスや電話があって連絡先にできることもあって、ボランティア活動やNPOの設立がブームだった獣数年前には、相当な競争率であった。それが最近は閑古鳥が鳴いている。空き机がでる状況なのである。これは市民活動をめぐる環境がずいぶんと変わってきたことを感じさせる。
最初に挙げた『標』には、この10年が丁寧にまとめられており、貴重なものになっていると思った。一方で気になることもあった。それは冒頭のほう。市民活動ことはじめにあたるようなページのことである。
それはボランティアやNPOの勃興の起点として、1995年の阪神淡路大震災と1998年の特定非営利活動促進法(NPO法)が据えられていたことである。もちろん京都におけるそれ以前の市民の動きなどにもちょこっと触れられてはいるのだが、それは本当にちょこっとなのであった。これはこの『標』に限ったことではなく、ボランティア関係、NPO関係の本を見ていると必ずそういうことになっているのだが、最近はそれについてほんとかなあという気がしているのである。
私は、天若湖アートプロジェクトやNPO法人近畿水の塾など、河川環境保全の活動に深くではないが関わってきた。そしてそこでであった人たちから、そうした活動の歴史についていろいろな話を聞いてきた。河川環境保全は、多様な人を巻き込んでの合意形成の仕組みがかなり進んでいる分野で、行政と市民団体、専門家等の連携についてもかなりの蓄積がある。治水という生命財産に係る問題や、河川空間や河川水のさまざまな産業利用もあり、それは多くの人について切実な関心事となってきたからである。その中で、今では割と普通に聞くようになっている協働型・ワークショップ型の合意づくり、政策づくりの手法が切り開かれてきた。
しかし最初からそういう協働のスタイルがあったのではない。当初は開発に対する批判・反対運動という形でさまざまな場所で始まったのである。河川や水資源関係のそうした紛争として、長良川河口堰、吉野川第十堰、琵琶湖総合開発、諫早湾干拓事業といったものがすぐに思い浮かぶが、その名前を聞いた覚えがある人は多いだろう。そうした運動が1984年に始まる水郷水都全国会議などで糾合されてゆくとともに、地域間、セクター間でのさまざまな交流を通じて、協働型の活動に移行していくのである。長々と書いたが何が言いたかったかというと、NPO的な「活動」の前史として闘いの形をとった「運動」の歴史があって、それは必ずしも切り離せないものだということである。そうした多セクター間合意形成スタイルの集大成的なものとなった淀川水系流域委員会(2001〜)の立役者だった宮本博司氏(国土交通省近畿地方整備局淀川河川事務所所長:当時)の問題意識の原点が、長良川の現場にいたときの闘争との出会いだったというエピソードは、「活動」と「運動」のつながりを示していると思う。
河川の問題だけでなく、景観保全やまちづくりの場面でも阪神淡路大震災やNPO法以前から、さまざまな「運動」が行われてきた。京都はそうした「運動」がとりわけ盛んなところであった。しかしそれは「活動」の正史からは切断されてしまっているように見えるのだった。
NPO法の成立を受けてかなり早い時期にアートNPO「アート・プランまぜまぜ」を立ち上げたさとうひさゑさんは、その時期の市民活動の盛り上がりとその時の気分をよく知る一人である。このさとうさんによれば、その頃のNPO第一世代の人々の間には、それまでのやや硬直化し党派性さえ帯びていたように見える「運動」とはあえて一線を画したい、という思いがあったのではないか、ということであった。これだけが理由かどうかわからないが、新しい「活動」をそれまでの反対「運動」スタイルのものとは、異なるものとして作っていきたいという雰囲気があったのは私も覚えている。すべての「運動」がそうだった訳ではないと思うが、反対を声高に言うばかりで現実的な問題解決に参加しようとしない種類の旧来の「運動」に対するいらだちのようなものはあったと思う。
「運動」は公権力や大企業に対する異議申し立ての形をとっていた。「活動」は行政や民間企業も含めた協働による問題解決を図っていこうとしていた。この2つは大きく異なっているようにも、場合によっては反対のようにも見えるが、地域での公益について人々の側からアクションを起こすという点では共通するものだ。切り離されてきたこの2つを、もう一度重ね合わせて考える時が来ているように思うのである。
阪神淡路大震災の後はNPOセクターに代表される協働型民主主義が勃興したが、東日本大震災と福島第一原発事故の後は、針は反対側に振れたように見える。憲法は尊重されなくなり、少数者の排除を狙う口汚い言葉が飛び交うようになった。地域のために熱心に働く多くの公務員がいる一方で、独裁的な首長に牽引される行政セクターへの不信も募っている。そしてそれらに対抗する「運動」が、かつてとは違った形で興り、新たなカルチャーをも生み出している。今回は詳しく書かないがSEALDsなど若い世代による、文化への目配りにも富んだ「運動」からは目を離せなくなってきている。彼らのコールには、ヒップホップのリズムとライム、レゲエの著名な詩句、障害者の権利擁護運動に由来する「私たちのことを、私たち抜きに決めないで(Nothing About Us Without Us)」といった言葉などが現れる。理念にも言葉にもリズムにも、多様な人々を巻き込む魅力が満ちている。これはかつての反対運動とかなり違うところだと思う。
一方、行政との協働を得意とする「活動」の方はあまりぱっとしない印象である。もちろん多くの団体が地道に良い活動を行っているのは知っている。しかし先に挙げたスモールオフィスの人気の低下などには、従来型のNPOセクターが置かれている環境の変化が現れているように思う。スモールオフィス需要の低下は、もちろん携帯電話とノートパソコンがあれば仕事ができる、という通信環境の変化によるところが大きいと思うが、どうもかつてのような活気が見られない。その場にさまざまな人々が出入りして触発し合う感じが薄れているように見えるのである。
ではそういう場がないのかというとそうではない。本学からもそう遠くない出町柳の路地裏に「かぜのね」という場所がある。古い木造家屋を改造したもので、なかなか美味しい飲み屋とワークショップ等につかえる広い座敷と、2階にはさまざまなグループが事務所を構えたりできるスモールオフィス的なスペースがある。飲み屋にはさまざまなグループの大量のチラシが閲覧しやすいように置かれていたりする。ここには、移住者支援をしている人、無農薬の野菜を作ったり売ったりしている人、エネルギー関係の運動をしている人、健康法のワークショップをしている人、アーティスト、ミュージシャンといった人々が入り乱れて交流している。ここには折り目正しいNPOはあまり出入りしていないが、新しいタイプの「運動」や「小商い」の人が集まっていつも賑やかである。先に歴史における「活動」と「運動」の切断を見たが、市民活動総合センターと「かぜのね」には、その空間的な分断が現れているように見える。この空間の質はどこからやってくるのか。
かつての「運動」は抵抗の言葉でできていた。一方その後現れた「活動」は、多様なセクターを巻き込み合意を作るため「協働」の言葉を持っていた。しかし、それがここにきて随分変わってきたように思う。長年NPOの仕事をやってきたが、うんざりするものがある。それは助成金の報告書とか、そういった役所向けの書類作成である。公的な助成を受けているのだから説明責任が求められるのはわかるが、役所の都合に合わせて書類を揃えたり文章を作ったりするのは、正直かなり消耗する。こういうところに労力は割きたくないが、やらざるを得ないのである。NPOは行政との協働はほぼ不可避である。いい関係が持てる場合もあるし、助成金はありがたいことなのだが、「このあたりで一つ住民主導のワークショップ入れてもらえませんか」とか上から目線で簡単に言われると本当に腹がたつ。こういう付き合いのなかで、NPOは行政の独特の論理と言葉の使用に長けていく。そしてそれはあまり幸せなことではないようにも思うのである。クラウドファンディング等新たな資金調達法が生まれ、アイディアに富んだソーシャル・ビジネスが盛んになってくる中で、行政に近いところでその仕事を請けるNPOは、今ではさまざまな選択肢の一つになっているのであろう。
一方、「かぜのね」にあつまるような人たちはそれこそいろいろである。世の中広くから見れば、それはまだ「ある種の」人たちかもしれないが、さまざまな「運動」とカルチャーが刺激を与え合っているのは確かだ。「運動」もかつてのような一枚岩性を求めるものから、多くの人が関わりやすい言葉とデザインとユーモアを携えたものに変わってきている。
NPO法施行後の社会に現れた「活動」は、それまでにない新鮮な言葉の資源をもっていたわけだが、社会のうつりかわりや行政との関わりの変化とともにそれが枯渇してきたように感じる。一方で「運動」が新たなコミュニケーションを生み出しているように見える。
ある種の分断があるこの「活動」と「運動」だが、歴史的にはもともと一つながりのものであった。市民が世の中を動かしていくには、「闘争」的なアプローチを取らざるを得ない場合もあるし、「協働」で解決していける場合もあるだろう。このどちらかを選択するというのではなくて、各個人がその双方を楽しく行き来できるような、両者のかさねあわせが求められているように思う。そのことによって、少なくとも協働型の「活動」の側には新たなバイタリティが生まれるだろう(もっともこうした「運動」と「活動」の関わりについては警戒する向きもある。さいたまNPOセンターが同市の市民活動サポートセンターの指定管理者から外されることになったのも、そうした「運動」との関わりを問題視する保守層の意向があったようである)。
「活動」における行政との連携が「動員」になってしまわないためには、市民側の自律が必要だ。本来「活動」が有していた多様なコミュニケーションを取り戻し、批判力をもった活動を展開していくためには、「いわゆるNPO的なもの」からはみ出していくことが必要だろう。
今回は「言葉」という言葉を使ったが、新しい「運動」にあってこれまでの「活動」にないものは、自由なクリエーションとそれによるコミュニケーションだと思う。こういうものは客観的な説明に乗りにくいので、役所の説明言語にはなじまないのだろう。こうしたクリエーションを進めていくのは、「風を知るひと」であるにちがいない。