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#214

「人間はその背後に記録を残す唯一の動物である。」
― 池野絢子

「人はその背後に記録を残す唯一の動物である。」

(2017.05.07公開)

このリレーエッセイの当番も、年度を跨いで再び新年度に突入しました。いつも思うままに、その時々自分が関心のあることについて自由に書かせてもらっていますが、今回は年度最初の担当回ですから、少しばかり趣向を変えて、大学で芸術を学ぼうとするみなさんにぜひ読んでほしいテクストを一つご紹介します。
そのテクストとは、ドイツの美術史家エルヴィン・パノフスキー(1892-1968)が1940年に書いた「人文学の実践としての美術史(The History of Art as a Humanistic Discipline)」という短い文章です。パノフスキーは『〈象徴形式〉としての遠近法』(1927)や『イコノロジー研究』(1939)で知られる美術史家で、西洋美術史を学ばれている方なら一度はいずれかの著作に触れたことがあるのではないでしょうか。そのパノフスキーによるこの小論は、美術史、そして広くは人文学という学問が、いかなる課題と使命を持つ営みであるかを、ごく平明な語り口で論じたものです。
もっとも、この文章でパノフスキーが語る「人文学」という言葉には少しばかり説明が必要かもしれません。人文学とは、自然科学に対して、文献学や歴史学といった学問を指す言葉ですが、もともとは14〜16世紀のルネサンス時代の人文主義者たちの実践に起源を持っています。人文主義者たちは、古典古代の遺産を復興させ、人間の価値と、その限界を究明しようとしました。だからこそ「人文学(Humanities)」は、ラテン語の「人間性(humanitas)」という言葉に由来しているのです。
パノフスキーは、その人文学の営みの重要な点を、過去の記録を研究する態度に認めています。「記録(records)」とはこの場合、証文や書籍といった文書資料だけでなく、絵画や彫刻、建築物といった人間の手になるあらゆる人工物を含む概念で、人間に特有の産物とも言えるでしょう。実際、この論考中でパノフスキーは、「人間はその背後に記録を残す唯一の動物である」と端的に述べています。もちろん犬や鳥その他の動物も、鳴き声など何らかの信号を発したり、巣のような何かしらの構築物を作ったりするでしょう。けれども人間は、信号をさらに別の事象を表現するために利用し、あるいは構築物をそれ自体とは別の何らかの観念を示すために用いることができます。それが、時の流れのなかで記録として残るのです。その意味で「記録」とは、人間をまさに人間たらしめているものでもあります。
さて人文主義者=人文学研究者は、その「時の流れから浮かび上がってくる」記録を前にして、それを客観的に観察・検証します。なかでも芸術作品を前にした美術史家であれば、その知的検証と美的再創造を同時に行うことになります。それにしても、なぜ過去の記録が重要なのでしょうか。過去を研究することが一体なんの役に立つのでしょうか。現代でもしばしば人文学に対して投げかけられる疑問に対して、パノフスキーはこう答えています。それはすなわち、われわれが現実に関心をもつからだ、と。現実を把握しようとするのに、現在という時間は、およそ適していません。というのも、今このときはすぐに過ぎ去ってしまうからです。それ故、現在は、実はおよそ現実性に乏しい時間なのです。真に現実を把握するためには、流れ過ぎゆく現在という時間から一歩身を退いて物事を見る必要があると、パノフスキーは語ります。

この小論は、美術史だけではなく、広く人文学一般の実践について、とても大事なことを気づかせてくれるように思います。とりわけ末尾の、人文学と自然科学の違いに言及した論述には、はっとさせられるものがあります。曰く、両者の根本的な違いは、自然科学が変化する自然の過程を観察して、そこに恒久的な法則を把握しようとするのに対して、人文学は変化から残された人間の記録を引き受けなおすこと、つまり「そうしなければ仮死の状態に留まるものを蘇生させ」ようとする点にあるのです。つまり、自然科学がある現象から変わることのない普遍的な自然法則を導き出す実践であるとするならば、人文学は、静止した記録に再び生命を与えようとする活動であるということです。
パノフスキーは、人文学と自然科学は、反目する学問ではなく、互いに補い合う関係にあると考えていました。いずれも、めまぐるしく過ぎ去っていく時間から一歩身を退いて、人間と世界を、よりよく理解しようとする営みなのです。

興味を持たれた方へ:
パノフスキー「人文学の実践としての美術史」は以下の書籍に収録されています。
『近代の藝術論(世界の名著 続15)』、中央公論社、1974年、443–470頁
アーウィン・パノフスキー『視覚芸術の意味(美術名著選書18)』中森義宗他訳、1971年、11-36頁(章題は「人文学としての美術史」)

図版キャプション:
アントネッロ・ダ・メッシーナ《書斎の聖ヒエロニムス》1475年頃、板に油彩、45.7×36.2cm、ナショナル・ギャラリー、ロンドン
図版出典:Wikimedia Commons