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アネモメトリ -風の手帖-

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#136

「きのこ」のチカラ
― 石神裕之

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(2015.11.01公開)

爛々と昼の星見え菌生え   虚子

信州小諸に昭和19(1944)年9月から戦時疎開をしていた高浜虚子。長い戦争も終わり、昭和22(1947)年10月14日、鎌倉虚子庵へ戻る直前の留別句会で詠んだ俳句である。菌(きのこ)を詠んだ句は少なくないが、そのなかでも掲句は最も著名なものであり、また今日まで俳壇において、いかに解釈すべきか議論が続いている句でもある。
たとえば、「爛々と」輝くような昼の星を見たとするのは「詩人の心眼」としたうえで、「魑魅妖怪のごとく真赤な菌、真黄の菌が地上を占め」、天上には昼の星が輝くという、人を寄せ付けないような「無気味な、不思議な世界」を、「老を知らぬ虚子のデモニッシュな力」によって仕立てあげた一句であるとする評価(大野林火『虚子秀句鑑賞』角川書店、1959年)もあれば、虚子が句会に出した別の句に「松茸の荷がつきし程貰ひけり」があることから、虚子は松茸の生えているものさびしげな茸山を思い浮かべたうえで、その木々の間からみえる青空に、かつて本当に見たのかわからないが、一点の輝く星の姿を空想し詠んだのでは、という穏当な解釈(清崎敏郎『高浜虚子』桜楓社、1965年)もある。
そもそも昼間に星を見るということは「可能」なのだろうか。実は金星のような等級の明るさ(おおよそ−4等級)であれば昼間でも観測することができるようで、天文ファンたちによって実際に撮影された昼間の金星の写真が多数存在している(細かなことを言えば、恒星ではなく惑星であるが)。では、それ以外の星はどうかといえば、昼間は太陽の光が空気中のちりなどで散乱し、全体として空が明るく(青く)なっているため、基本的に確認することはできない。しかし、井戸や煙突など散乱光の入らない暗い場所であれば、星の光を捉えることができるともいわれ、古来より「星」の語の入った「井戸」やそれにまつわる説話が多数存在していることは、興味深い。
実はこの留別句会に参加していた村松紅花が後に記した随想によれば、句会に参加したある俳人が句会の席上で、古井戸を覗いたところ、井戸の底にたまっている水に爛々と星が映り込んでおり、また石積みの間に何かの「きのこ」が生えていたことを語ったのだという。くわえて、虚子は他人の語ったものを巧みに句に仕立てることがあったといい、この「爛々と」の句も、人の話を句に仕立てたものではないか、と紅花は推測している(村松紅花『続・花鳥止観』永田書房、1994年)。
こう具体的に説明されてしまうと鑑賞に遊びもなくなるが、虚子自身が見た実景にせよ、空想にせよ、「菌」という存在を不気味なものとして捉え、また何かチカラあるものとしてみていたことは確かだろう。民俗学者の柳田國男は、古来より人々が「きのこ」にそうしたチカラを感じ取っていたことに興味を抱いている。柳田は「いつか一度キノコデーとも名づけて、思ふ存分茸の話を聴く機会をこしらえたい」と書くほど、「きのこ」に関心があったようで、とくに『今昔物語集』の巻二八の44篇の説話のなかに、4話も「きのこ」の話が入っていることに着目している(「鳴滸の文学」『定本 柳田國男全集』第7巻、筑摩書房、1962年)。
そのうち第二八話「尼供、山に入りて茸(たけ)を食ひて舞ふ語」に対する柳田の指摘は、極めて興味深い。まず話の概略としては、あるとき樵夫たちが、京の北山で道に迷ったところ、4、5人の尼たちが手に大きな「きのこ」を持って舞いながら山を下りてきた。その訳を聞くと道に迷ってお腹がすいたため、「きのこ」を採って焼いて食べたところ、自然に手足が動いて、どうにも舞ってしまうという。樵夫らもお腹がすいていたので、その「きのこ」を貰い受けて食べてみたところ、やはり舞わずにはいられず、尼と樵夫らがいっしょになって舞い続けて山を下りて行ったという。まさに異様かつ滑稽な様相であるが、柳田は物語中の「近来その舞茸あれども、之を食ふ人は必ず舞はず、きわめていぶかしき事なり」という一文に着目し、この説話のもつ歴史性や音楽史的意味に言及している。
たとえば「或る地方では舞茸は舞をまってから採るものだと謂い、もしくは其下に屋台を組んで、舞を演じてから後でないと採ってはならぬように謂う者もある」など、さまざまな民俗事例が各地に認められることを指摘したうえで、「舞茸」を採るためには舞を舞うという習俗が、じつは『今昔物語集』が書かれる以前より存在していた可能性を示唆した。
他方、秋の祭礼で、舞を舞うものが食べるといった習俗も見られるほか、「笑茸(わらいたけ)」と混同した語りもあった可能性にも言及している。そして「如何なる間拍子をこの舞には用いようとしていたのか。日本人の音楽才能はそれからでも窺われたろうに、伝わって居ないのは惜しいことである」と結んでいる。現在、舞茸といえば、椎茸やしめじと並んで食卓でもなじみ深いものだが、『今昔物語集』にいう舞茸が、現在私たちが食べているものと同じものであるかは、わからないようである。いずれにせよ、古代における「きのこ」と舞いの密接な関係は、「きのこ」のチカラを象徴しているようで面白い。
さらに遡って縄文時代。「きのこ」にそっくりな土製品が、三内丸山遺跡をはじめとして、北海道南部から福島県付近まで東北地方を中心に発見されている。その形態はきわめて写実的であり、食べられるきのこの見本として作ったのではないか、と推測する「きのこ」研究家もいる。考古学研究者のあいだでは、瓶状の容器の「蓋」として使用されたと推測したり、傘の部分の表面に渦巻き文様が刻まれていることから、いわゆる縄文クッキーのスタンプとして使用されたという説など多彩だが、いまひとつ決め手に欠けている。よくわからないとなんでも呪術性と評価するのは考古学者の悪い癖だが、やはり「きのこ」のチカラ、神聖性を、縄文人たちが感じていたことを示す遺物と、解釈することもできるのではあるまいか。
柳田は「多くの植物の中でも、茸の出現は突如として居って、しかも美味なる食物にもなれば、又折々は毒にもなる」と「きのこ」を評しているが、独文学者の種村季弘は、柳田の評価を踏まえて、「この茸の唐突さと(美味と毒の)両義性が、茸をして不気味なものにも滑稽なものにもしているのではあるまいか」と指摘している(種村季弘「茸とクソの戦争」『キノコの不思議』森毅編、光文社、1986年)。いま私たちは食用として売られている「きのこ」に不気味さを感じることはほとんどないだろう。それは、いわば人によって栽培され、「飼いならされた」ものであるからだ。一方でいまでも私たちが、野性に生える「きのこ」になにか不気味さを感じるのは、まさに唐突さや毒の存在といった人間が介入することのできない未知のチカラを感じるからかもしれない。
さて今回掲出した写真は、妻が近所の吉田神社の森で見つけた「きのこ」である。生えていたときは写真のように明るめの赤色をしていたそうで、採ったあと次第に赤黒く変化し、傘や柄等の部位も硬く締まっていったという。いま我が家の棚に無造作に置いてあるが、高さ8センチほど、色はアズキ色というところで、その姿は不気味というよりも、何かしらのチカラを漂わせている。
さっそく「きのこ」図鑑を買い込み調べてみたところ、どうも「マゴジャクシ【マンネンタケ属・タマチョレイタケ目・タマチョレイタケ科】」という「きのこ」であることが分かった。さらに古代から近世まで様々な文献の記事を事項ごとに収録している百科事典『古事類苑』を引くと、吉祥の霊薬とされる「霊芝」の項目に、奥州での呼び名として「マゴシャクシ」という語があることを発見した。現在も菌類学的には「霊芝」とされる「マンネンダケ」とは近縁の種類であり、おそらく古くはみな同類として捉えられていたものと考えられる。見れば瑞兆、食べれば寿命が延び、仙人にもなれるという「霊芝」。妻がそれを見つけて欣喜雀躍したとき、頭上の空には昼の星が輝いていたのかもしれない。