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#128

芸術教養を学ぶ意義
― 野村朋弘

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(2015.09.06公開)

京都造形芸術大学通信教育部の芸術教養学では4月の春と、10月の秋に新たな入学生を迎えている。9月に入り今期の秋入学の募集もスタートした。学科の入学説明会では、芸術を教養としてとらえ、幅広い知識を吸収し日々の生活を豊かにすることを説明するものの、なかなか意は伝わりづらい。芸術とは何か、教養とは何か。抽象的な言葉に実学的な要素は感じられず、何をもって日々の生活が豊かになるのかイメージが湧きづらいのかも知れない。

よく誤解されるのが、教養があるとは幅広い知識を吸収し博覧彊記となることだ。確かにそれが実現できるのはとても素晴らしい。しかし、芸術教養学科では、学生に対しそうしたことを求めているわけではない。
どちらかといえば知識を詳細にインプットしていくというより、細かい点は覚えてなくとも、何かしら豊かになる栄養分を、どんどん脳内に詰め込むイメージだ。
そうしたイメージを端的に示しているのが太宰治の『正義と微笑』にある一節である。内容は、退職する教師が主人公たち学生に話した箇所である。

お互いに、これから、うんと勉強しよう。勉強というものは、いいものだ。代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまえば、もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが、大間違いだ。
植物でも、動物でも、物理でも化学でも、時間のゆるす限り勉強して置かなければならん。日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。カルチュアというのは、公式や単語をたくさん暗記していることではなくて、心を広く持つということなんだ。つまり、愛するということを知ることだ。
学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、かならずむごいエゴイストだ。学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものなんだ。
これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。
そうして、その学問を、生活に無理に役立てようとあせってはいかん。ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ!
これだけだ。俺の言いたいのは。

学んだことを何かしら栄養分とし、脳みそを「ぬか床化」する。もしくは引き出しを殖やす。引き出しが多ければ多いほど、何か新しいことに相対した時、どう対処すれば良いかを考える物差しとして機能する。
つまり、万巻の書物に何が書いてあるかを、一字一句記憶することはさほど重要ではない。未知の事象や問題と出会ったとき、どのように理解すればよいのか、またどのような解決策があるかを思考でき、積まれた万巻の書物の中でも、どういったものに当たれば参考になるかを把握しておくことが何より大切なのだ。

伝統的な文化や歴史を学び自分がどこから来たのかを知る。そしてデザイン思考を学び未来の道を自ら指し示し、実践する。過去を知り、未来を描く。すなわちこれが芸術教養の教育的効能といえよう。
過去を知ることそのものも学問として古くから成立している。例えば私自身が専門としている文献史学は、諸史料を厳密に読み込み過去を復元するもので、とても重要な学問だ。
しかし、今を生きる我々は過去に戻ることは出来ず、未来に向かって生きている。過去は現在の判断を誤らないための大切な指針となるが、あくまで既にあったことにすぎない。未知の将来を経験したものは誰もおらず、だからこそ、過去を知るだけではなく、問題解決の糸口として先駆的な思考法も不可欠となる。
これら幅広い芸術教養をカルチベートすることこそが、実学よりも日々の生活をより豊かにすると思う。