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アネモメトリ -風の手帖-

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#92

方言としての芸術
― 上村博

sora_39

(2014.12.07公開)

雨の上がった夕まぐれ、博多駅前で待ち合わせ。行き交う人の忙しさ、賑やかさ。長崎観光イヴェントの屋台のマイクは甲高く、雑踏の騒音をさらに増す。遠くに見える巨大なハリボテケーキは気早いクリスマスの飾り付け。あたりは次第に暗くなる。17時になった。駅前の群衆から一斉に歓声が上がる。電飾が点ったのだ。こどもたちははしゃいで水たまりをバシャバシャふみつける。恋人たち、老夫婦、リュックの青年、コートのOLも電飾をスマホで撮りまくる。明るい照明の下、人々はここでは流れ、そこでは集まり、やがてゆっくり散ってゆく。都会のターミナル駅に良くある光景だ。

その昔、特急「はと」から博多駅に降り立ったときは、夏だったせいもあろうが、同じような混雑であっても、こんなおしゃれな駅前ではなかった。立て込んだ低い軒並み、人々の精悍な目つき、じりじりとした南国の午後の熱気に圧倒された記憶がある。それが今や日本中のそこここで見られる綺麗な駅前である。巨大な駅ビルや華やかなLED装飾は珍しいものではない。人混みもBGMも普通である。銀行名や観光ポスターが辛うじて九州にいることを思い出させてくれる。

しかし、それでも何かが違う。何か変だ。やはりここは九州博多の駅前だ。

しばらくどこからその感覚が来るのか思い惑っていると、若い男女の会話がすれ違いざまに耳に飛び込んできて、はっとした。懐かしくも珍しいのは、どこからか漂う豚骨ラーメンの匂いでもなければ長崎のイヴェントに出張してきた「さるくくん」でもなかった。その騒音の中を飛び交う博多弁である。外国人も多数いる博多駅前だからかもしれないが、耳に入る言葉に、異国の響きがある。意外とヴォキャブラリーは標準語そのままである。しかし会話のイントネーションが微妙に違う。とりわけ、地元の女性グループの会話は実に溌剌とした博多弁である。一見したところ街も人もすっかり他の都市とかわらないようだが、この声、この響きはたしかに博多に独特の色を決めている。

その晩、長崎、福岡、大分在住の方々としばらくお話をすることができたが、そこでも方言が話題になった。近いように見えて九州内でも結構互いに方言がわからないとか、日田の言葉は意外と小倉に近いとか、そうした話をそれぞれ差はあれ九州イントネーションで聞かされた。外から聞くと、微妙な差異で、相通ずるところもあれば、絶対的な差異もある。しかしそれがひとりひとりの個性にもなっており、今思い出しても、話し手の姿形や目鼻立ちと並んで、声の質や抑揚も、それぞれのひととなりと一体となっている。人が使う方言は、人を作る方言でもある。

知り合いの芸術家松井利夫氏が、方言による芸術、ということをかつて提唱していた。ひとつには、標準語ではなく方言で芸術を語ると、それまで見えなかったことが見えてくる、ということである。そしてまたもうひとつには、地域それぞれに方言があるように、地域それぞれに芸術があってよいし、方言独特の語彙や話法があるように、地域の芸術にはそれ独特の素材や技法があってよい、ということでもある。言葉は共有物である。ただし言葉を共有するのは、世界中の人たちでもなければ、日本中の人たちでもない。ひとつの地方、ひとつの町、ひとつの村落、あるいは地理上のまとまりではないひとつのグループでも可能である。文化的な共同体は価値を共有できる人々が数名もいれば成立する。そこでは独特の方言と独特の芸術が共同体の中心を作る。まさにこれはヴァナキュラー・アートである。

「ヴァナキュラー」vernacular とは、もともと都会の標準ラテン語とは違った、田舎の方言を指すための形容詞で、教養のない輩の使う言葉として、一種の蔑称でもあった。しかし「ゴート野郎の」とか「えせローマ風」とかという他の形容詞の例と同じように、今やそれなりに積極的な意味も与えられている。特に建築では、特定地域に独特の、風土固有の建築をヴァナキュラーという。しかし建築に限らず、ヴァナキュラーな芸術はたくさんある。そもそも感性的で身体的な経験をもたらす芸術は、その身体がどこで作られ、どこに置かれているかに大きく左右される。すべての芸術は方言的だ、とさえいってよいかもしれない。

たまに、芸術は国境を越えるとか、芸術には言語の障壁を取り除くとか言われることがある。しかし実のところ、芸術も言語同様にわかりにくい部分がある。いやむしろ、言語同様にわかりにくく、かつわかりやすいというべきか。つまり、方言が少しの地域差でもコミュニケイション不能になるほど、独特でありうるのと同様に、芸術も地域ごとに独特の形態を持ちうるだろう。しかしまた、方言はいかに奇妙に聞こえても、外国語と同じく、ある程度までは学習可能なのだ。それと同じように、芸術もまた、ある程度までなら、学習可能なのである。芸術が異文化を理解させるとしたら、学習可能な言語と同じような意味においてである。国境を越えようとするなら言語を学ぶにしくはない。芸術は広義の言語である。それは身体的な技術であり、後天的に学ばれた能力である。方言であるからこそ、各地の芸術は独特であり、また方言であるからこそ、それぞれの芸術には理解の可能性もある。