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アネモメトリ -風の手帖-

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#79

宇治茶
― 野村朋弘

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(2014.09.07公開)

9月1、2日と調査のため京都府の宇治市内を巡ってきた。
宇治といえば、平等院鳳凰堂と源氏物語宇治十帖、そして宇治茶をすぐに想起されるだろう。
今回は特にお茶について取り上げてみたい。宇治は、日本の喫茶文化を支える重要な生産地である。茶道や煎茶道など、喫茶文化に携わる人々の他は、宇治茶といっても高級品といった漠然としたイメージしかなかったかもしれない。しかし昨今では、ペットボトルのお茶である上林春松本店の「綾鷹」や、福寿園の「伊右衛門」で全国的にも知名度が上がったといえよう。

さて。宇治のお茶は中世の頃から高級品として認識されており、『尺素往来』という史料には、もともと最上とされていた栂ノ尾茶の衰微と、宇治茶の台頭が記されている。
そうした茶を生産する茶園の中に、室町将軍に認められた七園がある。「森、祝、宇文字、川下、奥ノ山、朝日に続く、琵琶とこそ知れ」と和歌でも詠まれているものである。伝承では室町三代将軍の足利義満が良質の茶を生産する茶園として指定したとされており、「宇治七茗園」と称せられる。
しかし、これら七茗園の経営はどのようなものであったか。史料も残っておらず、不明というほかない。歴史を調べる際に、根拠にあるのは今日に遺されている資史料であり、それらを基に歴史像は構築されていく。

このところ私は、研究の一環で中世の宇治で茶師を営んでいた堀家の文書を読んでいる。堀家は、先に記した上林家と並ぶ古い茶師の家で、元々は宇治神明神社の神職の末裔という。15世紀から16世紀にかけて土地を集積し、大規模に茶園を営んでいたと考えられている。当時の宇治茶を代表する家といえよう。その家が集積し遺していた文書150通ほどが現在では国立歴史民俗博物館の「田中穣旧蔵文書」群にあり、中世の宇治の姿を今に伝えている。今回の宇治調査は、その史料に現われた地名、また地形を把握するために行ったものだ。
歴史像を構築するためには、史料を紐解くことが重要なことは既に述べた通りである。崩し字と呼ばれる筆書きを読み起こし、書いた文脈を理解していく。そして今回のような文書群では土地勘も重要になるので、景観も変化しつつある中で遺された当時の面影を博捜する。こうした地道な作業が、ひたすらに続く。その先にはじめて歴史像は現われる。歴史を垣間見られる瞬間は、とても愉しいもので、これを味わうために研究者を続けているようなものだ。

とかく、伝統的な事象に対して、変化しない普遍的なものと捉えがちである。しかし、伝統的な事象を継続することが出来るのは「人」である。人間はコンピュータと異なり、常に同一の行為をする訳ではない。同じではないように、伝統的な事象も立ち止まること無く、少しずつ変化していくのである。景観も同じで、人々の営みの中で変容していき、今日にたどり着いている。
「伝統的」と呼ばれるものの裏にある変化を辿る。そうした知的行為は、豊かな教養へと繋がっていくだろう。

話を宇治七茗園に戻そう。森、祝、宇文字、川下、奥ノ山、朝日、琵琶とあった茶園で、今日まで遺されているのは、唯一、奥ノ山だけである。この奥ノ山園に、縁あって見学する機会に恵まれた。
奥ノ山園は、平等院や宇治川をのぞむ小高い山にある。茶園には1800本くらいの茶木があり、大切に育成されている。その中に「奥ノ山」という品種が育てられている。これは、奥ノ山園の在来種から20年の時間を掛けて選抜されたものだという。つまり、生粋の宇治茶なのだ。宇治茶は日本が誇る伝統文化の一つである。こうした伝統が培った味には、この「奥ノ山」が顕している通り、携わる人々の熱意も加わっているといえよう。