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アネモメトリ -風の手帖-

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#75

目的のない旅
― 早川克美

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(2014.08.10公開)

男は,高田馬場の通り沿いでタクシーを拾うと
「まっすぐお願いします」
そう一言だけ告げると黙ってしまった.
30代半ばくらいのこざっぱりした身なりの男だった.
運転手がルームミラーをのぞくと,涼やかな表情で男は外を眺めている.
しばらく走って,運転手はやはりたまらず,
「どこに行かれますか?」と男に尋ねた.男は,
「うーん,やっぱり目的地があったほうがいいですよね.困ったなぁ」
と笑いながらのんきに答えた.
「じゃあ,運転手さんの好きなところを30分走ってください.30分経ったら元の場所に戻ってください.」
運転手は言われるまま,都内をあてもなく走り,1時間で元の高田馬場に戻り男を降ろした.不思議な客だったが,不安な感じはしなかった.1時間の間,男はとても心地よさそうに車窓からの景色を眺めていたからだった.

これは,つい先日乗ったタクシーの運転手から聞いた話だ.
「酔狂なお客さんもいたもんですよ!」と運転手は興奮気味に話した.
私はその男の一見奇妙な行為に興味を覚えた.
あてのない1時間のドライブ.車窓から眺める街の人々の営み….

そうか,男は,旅をしたのだ,と私は思った.
こんな日常に,旅への入り口があったのだと,私はしばし男の1時間を追想した.
移動の時間にこそ,旅の本質がある.次々に目に映るその光景から,様々な感情が生まれてきたに違いない.日々の生活で溜まった澱のような思いも,移動とともに流れ去っていったのかもしれない.何か発見があっただろうか.そしてなかったとしても,それはそれでここちよい空白を味わえたことだろう.

“「心が砥げてくる」
刃物のように,と蕪村はいった.旅に出れば,自分の心の奥にある,あったとも思えぬ意外な琴が,意外に鳴りだすこともある.「その琴の音を」と蕪村がいった.「聴く.聴くことが旅というものだ.その音だけが自分を高めてくれる」”
(天明の絵師,1986,司馬遼太郎.講談社)

蕪村のいう「意外な琴の音」は,その男にどのように鳴ったのだろう.

人は自分の行動に目的を見出そうとする.意味づけをして納得させたいのだ.しかし,時にその意味は,行動や感性さえも規定してしまう.
だから,旅があるのだ.旅は日常からの逸脱を与えてくれる.

風の吹くまま,ゆく雲のごとく,流れる水のごとく…
この夏,あえて「目的のない旅」に出られてはいかがだろう.