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アネモメトリ -風の手帖-

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#188

公園は誰のもの?
― 下村泰史

(2016.11.06公開)

公園というと、みなさんは何を思い浮かべられるだろうか。多くの人は、お住いの近くにあるあまり大きくない公園を思い出されるのではないかと思う。あるいはどこか今住んでいるのとは違う町の、子供を育てていた頃にベビーカーを押して通った公園を思い出す方もいるかもしれない。あるいはそれは森の中に博物館があるような、大きな公園かもしれない。公園をめぐる記憶はいろいろであろう。
今挙げたような公園は、いずれも「都市公園」とよばれるタイプのものだ。住環境の中に埋め込まれるように配置される、街区公園(2500㎡くらい:昔は児童公園といっていたもの)や近隣公園(2haくらい)、地区公園(4haくらい)など「住区基幹公園」や、総合公園や運動公園など都市に一つか二つずつ設けられる大きな公園である「都市基幹公園」が主なものだが、他にも風致公園やら都市広場やら、国が作って管理する国営公園やらいろんな種類のものがある。ふつういう公園はだいたいこの「都市公園」に入るのだが、ほかにも、旧皇室苑地を環境省が管理している「国民公園」(新宿御苑、京都御苑など)、自然景勝地などを「このあたりを公園にします」といって人が住んでいても公園にしてしまう「国立公園」「国定公園」「都道府県立自然公園」などの自然公園といったものもある。
さて、身近なものから雄大な自然まで、いろいろなところが公園ということになっているが、いずれにも共通のものがある。それは「公」であるということと、「園」であるということだ、当たり前である。後者の「園」である、ということはオープンスペースであるということ。建物が威張らない場所であるということである。これは当たり前のようだが結構大事なことで、戦後の復興期に公園だったところが有効活用(?)されて学校やら何やら建てられてしまったことがあり、その反省から今の「都市公園法」ができたところがある。そこには、いろいろな例外を認めつつも、建築面積は公園面積の「百分の二」を超えてはならないと書かれている。「建てない」ことは公園のひとつの本質である。話が横道にそれるけれども、道路法という法律がなくても、道は存在してしまう。人や物が移動するからである。河川法という大切な法律があるけれども、この法律がなくても川は存在する。いうまでもなく水は法律を気にせず流れるからである。公園は、公園に関する法律がないと存在できない。都市公園法が、自然公園法がなければ存在しない。なければその場所はどんどん開発され建築で埋められていってしまう。公園というボイド(からっぽな空間)は、制度によって、政治によってはじめて存在するのである。どんなに緑に溢れていても、それは自然にそこにあるのではないのだ。
もう一つ大事なのが「公」である。「誰もが利用することができる」のが大事である。個人邸や会員制クラブの庭園とは違うのである。不特定多数の人が、遊んだりくつろいだり、自然の風光を味わったりできる場所が公園なのである。
これは「公共の場所」であるということである。したがって、みんなが払う税金によって、公共施設として役所が設置し管理するのが普通である。公園にある滑り台もブランコも、花壇や樹木も税金でできていて、役所の公園課のようなところが設置し、管理しているのが常であった。
とはいうものの、公園には公園管理者(市など)のものではないものが結構あったりする。防災用の貯水槽が埋設されていたり、消火栓が置かれていたりする。こういうのは「占用」という手続きで設置されるのである。これらは「公園施設」ではない種類ものである。
公園管理者でない者が公園施設を作ってしまうこともある。最近見直しが進んで減ってきたけれど、昔からある公園の売店というのはそういうのが多かった。これは都市公園法第5条の定めによる、公園管理者以外のものによる公園施設の設置及び管理という手続きによる。大きなところで言えば、大阪城ドームは大阪城公園の公園施設(教養施設)として位置付けを持ち、この手続きで管理運営されている。京都の円山公園の旅館群のこれである。
この都市公園法第5条の運用が、ここ数年で随分変わってきた。住民や市民による花壇など施設の設置・管理ができるようになってきたのと同時に、「専門的なノウハウを持つ民間企業」による公園施設の設置・管理も積極的に進められるようになってきた。京都の梅小路公園の京都水族館(オリックス不動産による)や、東京渋谷の宮下公園のホームレス排除型スポーツ施設(ナイキによる)も、この制度によるものである。宮下公園の例はマスメディアにはネーミングライツとホームレス排除の観点からばかり話題になったが、当時本学の大学院生が情報開示請求をして明らかにしたのだった。
最近既得権益についてはいろいろ議論があって、この制度によって長年細々と売店を営んできたような人々は排除されている。一方で、鳴り物入りの水族館やスポーツ施設が自治体と企業のトップ同士の合意だけで、議会での議論もそこそこに決まってしまう例が相次いだ。そしてそれぞれの施設の公共的な正当性については市民から疑義が示され、大きな問題になった。京都水族館の問題について私が語りだすと長いので省略するが、反対論を含め議論が盛り上がったことでオリックス側と京都大学等専門的研究機関が連携し、展示内容は一定の意義あるものになったということはあった(私が主張した市民を交えてのテーブルは最後まで設置されなかったが)ものの、その実施プロセスは地方自治における民主主義な泣く、本当に不細工なものであった。興味のある方は、拙著「都市公園法第5 条改正と非政府セクターによる公園施設整備の動向」(ランドスケープ研究 Vol. 76 (2013) No. 5 p. 697-702)をご一読されたい。
市民や住民が公園施設をつくったり、それを管理したりするのは、公共部門への参加のあり方として良いものだと思う。ここでは設置・管理に関わる主体は、その公園の主たるユーザーでもある人たちである。ユーザーと施設管理者が一致しているのである。大企業が公園管理者と共謀して公園施設と称する集客施設を設置する場合はどうだろうか。公園のユーザーはこの集客施設の管理からは排除される。顧客として迎えられることはあるかもしれないが、資本の論理によって排除されることもありうる。「だれもが利用できる」という公園の建前がここでやや怪しくなってくるのである。特に宮下公園の場合には、公園からのホームレスの人々の排除というのがかなり明確に意図されていた。ホームレスは公園利用者ではありえないのか。利用してもよいが、滞在するのがいけないのか。
私自身、神戸に住んでいるときに阪神淡路大震災にあったので、その時のことはよく覚えているのだが、滑り台やジャングルジムにシートをかけたりマンホールをトイレ化したりすることで、自宅が被災して住めなくなった人が公園に臨時的に居住可能となったことが、公園の防災時の機能として評価されたことがあった。であるならば、経済的な災害によって住処を失った人が公園に居住することにどのような不当さがあるのか。それは公園の「利用」ではないのか。この辺、結構極論を書いてしまっているが、パブリックな場を構想する者(ランドスケープ・デザイナーは当然)であれば、当然意識して然るべきものではある。
さて、この都市公園法5条の問題かどうかわからないが、近畿でまた「公園はだれのもの?」問題があったようだ。枚方市において、篤志家といってよいのだと思うが、ある市民が、美術コレクションを持っているので、市の公園に美術館を立ててコレクションと一緒に寄付したい、といったそうである。コレクションのレベルというのはどういうものなのかよくわからない。また建設業関係というその篤志家が建てようとした美術館というのがどういう水準の建築なのかも私は情報をもっていない。ただこれがこれまで緑だけだった公園を食いつぶしてしまう、という批判があったことは確かであったようだ。努力しないで美術館ができる、これはいい話だ、ということで市側は一旦喜んで受け入れようとしたようなのだが、反対運動があったらしい。それでその結果今の所、市としては「今回、市として美術館の整備を前提とした寄附を受けることは困難である」「美術館の整備ではなく、広く美術振興のために寄附をいただけるのであれば、寄附者の氏名を冠した基金を設けたい」との考えを寄付を考えた市民に伝えたそうである(「市議会で美術館整備に係る市の判断について報告」:https://www.city.hirakata.osaka.jp/site/citybrand-kyouikubunka/bijyutukanseibijyoukyou.html)。その市民にとっては、割り切れないところもあったかもしれないが、とりあえずは白紙撤回となったようだ。この事例の場合、寄付者は大儲けできる集客施設を考えたわけではないから、昨今の公園のマーケット化の話とは少し分けて考えたほうがいいのかもしれない。しかし、市民の頭上を飛び越えるかたちで、価値についてはよくわからないところがある美術館が公園にできそうになったわけで、公園という空間がそういう欲望が張り込む場所なのだということは覚えていた方がいいのだと思う。
近畿ではそれほどでもないけれど、東京の方では公園で楽器を持ち出すと「音楽活動は禁止です」といわれるそうだ。しかし、美術品の寄付よりもなによりも、公共のオープンスペースというものは、そこに行き交う人々の絶えざる表現の場なのではないのだろうか。そこには会話があり身振りがあると同時に、つねに何らかのパフォーマンスがある場なのではないだろうか。「誰もが利用できる」という建前と、「音楽活動は禁止」というある種の排除の間にあるものについて、ランドスケープデザイナーも、市民ももっと考えるべきではないのか。
上でも書いたように、公園は制度によって、政治によって初めて成立している空間なのである。そこで何が可能で何が不可能なのか、誰が可能で誰が不可能なのかを見ていくことは、公園の敷地を越境したさまざまな問題につながっていくはずだ。公園は誰のもの? あなたにも考えていただきたい。