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アネモメトリ -風の手帖-

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#182

ごろごろ
― 上村博

ごろごろ

(2016.09.25公開)

ごろごろ、がらがら。ころころ、からから。
空港や駅の騒音のなかで、この数年でそんな音がどんどん大きくなってきた。大勢の足音、出発時刻のアナウンスや行き交う人の話し声に混じって、ゴロゴロゴロ、ガラガラガラ、と聞こえてくる。昔からあったのかもしれない。でも最近やけに増えたような気もする。そしていつの間にか、この音の発生源を「ごろごろ」と心の中で呼ぶようになっていた。
「ごろごろ」とは、キャスター付きトランク、車輪のキャリアーの付いた旅行鞄のことである。キャリーバッグとも言うようだが、本当の英語なのかどうかはわからない。「ごろごろ」を手にしているのは、出張のサラリーマンというよりも、専ら観光客である。それも海外からのお客さんが多い。しかし日本人でも「ごろごろ」が普通になってきたようだ。いまどきボストンバッグやキャスター無しのスーツケースは流行らないのだろうか。バックパッカーでなければ世の趨勢は「ごろごろ」である。ごろごろごろと地響きを立てて、大勢の観光客が「ごろごろ」を引きずって歩く。
ごろごろという音には、きっとじきに慣れるだろう。しかし困ったことに、「ごろごろ」は凶器にもなるのだ。「ごろごろ」は結構コントロールが利かず、しばしば人にぶつかってくる。「ごろごろ」が爪先を乗り越え、踏みにじる。脛を打ち、膝を砕く。また「ごろごろ」を引っ張っている旅行者自身も、方向転換しづらいのか、往来の真ん中を体当たりで突進してくる。列車の到着時などに、一斉に「ごろごろ」が走り出すとなると、これはまったく危険きわまりない。最近の団体観光客はそれぞれに巨大で頑丈なスーツケースを引っ張っている。旗に先導された彼らが集団で動き出すと、多数の「ごろごろ」がぐんぐん迫ってくる。駅の廊下など、数十キロのジュラルミンの塊が次から次に時速4キロで飛んでくるようなものだ。体調や運が悪ければ、間違いなくそのひとつに激突していることだろう。
家族連れもごろごろである。親だけでなく、こどもが3人いたとしたら、親子5人ともどもにごろごろである。こどものそれは小さくて軽そうで、「ごろごろ」というより「ころころ」といったほうがよさそうな、見るからに可愛らしいものでもあるのだが、その一方で、そんなに運搬する重量物もなさそうなこどもにまで「ころころ」を与え、将来の「ごろごろ」予備軍にしているかと思うと気が滅入る。
ところで、「ごろごろ」は本当にみんなに必要なのだろうか。旅から旅へのお仕事であれば仕方がなかろうし、重く嵩張る荷をどこかに届けなくてはならないのなら必要だろう。しかし、いつの頃から気楽なはずの観光客の荷物がこんなにまで増えたのだろう。みんな鉄鉱石や石炭を運搬しているわけではないだろうに。自分の持ち物が増え、また従って自分の運び物が増えたのだろうか。「ごろごろ」にぎゅうぎゅうに詰めるほど,所有物が増え、高性能の「ごろごろ」そのものも買えるというのは、それだけみんな豊かになったということなのか。人類が貧困と荷駄の苦役に耐えてきた長い歴史を考えるなら、今日そこから一部の人間であっても解放されたのは、それはそれでおめでたい。
しかし、重量からの解放や豊かさとも関係するが、もうひとつの理由があるのではないだろうか。それは十字街頭を交差疾駆する「ごろごろ」の相当な割合が一種のファッションではないか、ということだ。それは「ごろごろ」の個数の何割かが主に外見上の動機で買われているのではないか、ということだけではない。実のところ、大きいものだと「ごろごろ」本体だけで4〜5kgはしてしまう。総重量20kg程度の荷物なら、およそ2割か3割を「ごろごろ」だけで占めることになる。
それでも、しっかりした硬質のケースにキャスターが付いていると、何だか高級そうではないか。大人の旅客たるもの、ぶってり膨れあがった手提げ鞄とか、ましてや覗けるほど衣類を押し込んだ風呂敷などを持って旅してはならない。第一、自分の肉体を使って荷物を運搬するなど、下賤の人間のしわざである。一流の社会人なら、ポーターを雇うものだ。そこまでしなくても(それができなくても)、荷物運搬の仕事は極力自分の腕の筋肉を用いずすませたい。そこで登場するのがキャスターである。くるくると小回りの利く車輪を装着するだけで、あら不思議。重厚なスーツケースも指先1本で引っ張ってゆける。ああ、これだ、これを待っていた。これぞ文明人の品格というものだ。胸を張って颯爽とごろごろ引っ張ろうではないか。
勿論、みんながみんな見栄張りで「ごろごろ」を使っているわけではないだろう。実際それによって助かる人も大勢いる。それでも、大して必要もないのに「ごろごろ」を引いている例もあるのではないか。そういえばうちのこどもも「ごろごろ」を見かけて欲しがっていた。勿論こどもにそんな危険物を買い与えたりはしないが、こどもの目にも「ごろごろ」が恰好が良く見えるのだろう。もっと成長して偉そうな風体になってから、うんと軽い「ごろごろ」を悠々と引っ張って貰いたいものだ。いやしかし、まずその前に自分のためにこそ「ごろごろ」を手に入れたい。何より最近筋力がない。手提げ鞄を肘にかけていると、荷物の重さで痣ができてしまう。だからというわけである、今こそ、ひとかどの社会人の顔をして、ひときわ堂々とした「ごろごろ」を手に入れよう。そして完全武装の出で立ちで、いざや押し寄せる雑踏に立ち向かおう。